新生Vリーグ in ウカルちゃんアリーナ

友達と友達の娘さんとウカルちゃんアリーナに、東レデンソーの試合を見に行った。

本当は埼玉でやってる岡山シーガルズの試合を応援に行くべきなんやけど、今日はバレーボール部じゃないのに、バレーボール大好きの娘さんの為にチケットを取って、初生バレーボールにお付き合い。

なんと、木村沙織さんと野村忠宏さんがゲスト出演。
木村沙織さんの大ファンの娘さん大喜び!(笑)
良かった、良かった。

木村沙織さんはやはり無茶苦茶可愛い。
マジで9頭身。

亜季の試合の応援で、現役時代の木村沙織さんを何度も見ているけど、やはり華があるから、コートの何処に居ててもパッと目が行く。
そして人気も断トツ。
正真正銘の日本の大エース。

今日は薄いブルーのモヘア調のニットに白のワイドパンツとまたキュートな装い。
そして木村沙織さんと言えば、川西君大好物の大っきなおっぱい。
これまた健在。
木村沙織さんはプレーは凄いのに、動きがパタパタと動くペンギンみたいなとこがあって、これがまた可愛いんだわ。

亜季がシーガルズでこんなスター選手とネットを挟んで試合してるのを見た時は感慨深かったなぁ。

亜季の入団当時はなかなか辛いものだった。
同期入団は亜季を含めて4人。
他の3人は、1年目から試合に出してもらっていたのに、亜季はユニフォームさえ着る事なく、ジャージで試合前の練習のサポートをしていた。
そして入団1年目は、ユニフォームを着る事なく終わった。

やっぱり通用するかどうか分からないプロなんて止めておけば良かったのに。という声も聞こえてきたりした。
でもあたしは、「ここが辛抱のしどころ。1年目から通用する程甘い世界じゃないけど、諦めたらそこで終わり。自分が本当に好きな道に進める人なんて本当に一握り。思う存分頑張って!」みたいな手紙を送ったりした。

お姉ちゃん夫婦は、1年目からほぼ全試合全国に応援に駆け付けていた。

ただの一度もユニフォームを着る事なく、ジャージ姿でサポートに回る亜季の姿は、私が見てもなんとも言えない気持ちになるのに、どんな気持ちだったのだろう。
それでも決して出しゃばる事なく、シーガルズの応援に徹するお姉ちゃん夫婦は、ファンとはこうあるべきというお手本のような存在だ。

2年目から亜季はレギュラーリベロとして、試合に使ってもらえるようになる。
あれから10年。
同期4人のうち、1年目に一番試合に出ていた二人の選手はもう引退してしまった。

バレーボール選手の寿命は短い。
プロ野球やサッカーと違って、プロスポーツとしてはまだまだマイナーな部分も多いバレーボールは、セカンドキャリアも確立されていない事もあって、二十代半ばで引退してしまう選手が多いのだ。
28歳の亜季はもうベテラン選手。

新生Vリーグとして新たにスタートを切った今シーズン。
亜季は今のところユニフォームを着ていない。
選手のサポートに回っている。

拾って拾って繋いで相手に粘り勝つスタイルのシーガルズは守備重視。
毎年毎年リベロが入団してくる。
「今年もまたリベロが入った…。」
身内としては、なんとも言えない焦燥感に襲われる。

でもそこは本当に競争の世界。
誰よりも亜季自身が分かっている。

亜季は本当にバレーボールが大好きで、バレーボール以外の趣味がない。純真そのもの。
バレーボールに集中出来ないからと、スマホを持ったのは入団3年目だった。
先輩から連絡が取れないから持ちなさいと言われてやっと購入したような子だ。
私も亜季の携帯の電話番号もlineも知らない。
お姉ちゃん夫婦が、バレーボールに集中したいという亜季の意志を何より尊重してるので、余計な煩わしさを与えないように、お米を送ってもお姉ちゃんから亜季に連絡を入れてもらってるくらいだ。
すると亜季からあたしのお母さんにお礼の電話が掛かって来る。
お母さんにとっては、これが何より嬉しい。
あたしもお母さんの喜ぶ顔が見たくて、送っている部分もある。

身内ではあるけれど、選手としての亜季のファンでもあるので、亜季が試合に出ていないのは、正直辛い。
でもあたし達は勝手だ。

ユニフォームさえ着れなかった亜季が試合に使ってもらえた!
レギュラーリベロとして起用されるようになった!
木村沙織選手や荒木選手と同じコートに立ち、そのスパイクを亜季が拾っている!
全日本の強化合宿に呼んでもらえた!
全日本の代表選手としてオリンピック予選の試合に出た!

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どんどん成長する亜季に、言い尽くせない感動をもらって来たのに、試合に出てないと淋しいと思ってしまう。

お姉ちゃん夫婦は、今シーズンも全国に応援に駆け付けている。
亜季の両親だけど、何より岡山シーガルズの熱心なファンの一人として何処までも応援に駆け付ける。

今日、滋賀県が地元の東レのホームゲームなのに、何処か応援に熱が入らないあたしが居てた。
気持ちは100%岡山シーガルズの応援団やから。

今シーズン、まだ未勝利のシーガルズ
うーん、厳しいなぁ。
でも、頑張って欲しい。
もうそれしか言えない。

東レのホームゲームのウカルちゃんアリーナは満席ではなかった。
木村沙織さんが抜けた穴は大きい。
でも、岡山でのシーガルズのホームゲームはいつも超満員。
シーガルズの地道な地域密着の活動が、徐々に岡山県で認知されていってるようで凄く誇らしい。

今回は埼玉まで行けなかったけど、また岡山まで応援に行くからね、亜季!

遠くの鶏足寺より近くの東光寺

一年で一番好きなシーズン、紅葉シーズン到来!🍁🍁

今日はお母さんを乗せて、長浜市(旧木之本町)の鶏足寺へ。

湖北では結構有名な紅葉の名所で、ずっと行きたかった。
やっと行けた!

でもでも、期待値が高かった分、「う~ん⤵️」
観光用ポスターは実際の3割増なのはよくあること。
今年は特に台風21号の影響で、例年に比べるとかなり見劣りすると、レストランの人が言ってた。
残念。

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せっかく出掛けて来たのにこれでは帰れない。
もう一カ所行くべ。と木之本インターチェンジへ。

地元の紅葉名所、湖東三山の陰に隠れた知る人ぞ知る名刹『東光寺』に行ってみるか。
と思ってカーナビは自宅へ帰るでセッティング。

料金所ゲートイン。
カーナビに従ってくるーんと高速へ。
うん?うん?あ~れ~~。
彦根方面行かなアカンのに、敦賀方面乗っちまった!

カーナビの奴上り下り間違いやがった!
木之本から家帰るのに敦賀回りってどんな遠回りやねん。
滋賀県内の高速で上り下り間違うあたしもあたしやけども!

マジか。
木之本から次の敦賀まで約25キロ。
片道780円。
何にもないのよ、この区間
ひたすら山道で。

しかもこの間違い二回目。

二十代の頃、長浜である会議があって終わったら22時。
しかも会議の内容が煮詰まるわ、責任者がキレるわ、重い重い。
もうぐったり。
「あーしんど。」と思いながら長浜インターチェンジに入って、しばらく無言で運転。
今日はなんか家まで余計遠い気がするわ。
疲れたわぁ…。
まだ木之本かぁ…。
木之本、うん?木之本??
えっ?なんで木之本?
それってどっち?
もしかしてあっち?
あたし反対向いてないか?
え、今のあの斜め左の道、木之本インターチェンジの出口ちゃうの?
え?え?
まずい!降りなアカン、降りなあかーん!

通り過ぎてもた…。

嘘やん。
次は絶対降りる。
次はどこ?
そこからひたすら暗い暗い山道。
カッパが化けて出て来るんちゃうか、思うくらいの漆黒の山道。
怖かったわぁ。
敦賀インターチェンジでとんぼ返りして、ひたすら八日市インターチェンジ目指して帰って、家に帰ったら23時40分。

帰ったらお父さんにメタクソに怒られるし。
疲労困憊。

笑い話で何回かして来たのに、また間違うとは。
もー、往復1560円とガソリン代の無駄。
こういう無駄な時間とお金の使い方どんだけして来たやろ。
超絶方向音痴はいろんなものを無駄に消費する。

今日はぽかぽか陽気なのがせめてもの救い。

東光寺到着。
う~ん、あと一週間早く来たかったなぁ~。
でもなかなかのもの。
綺麗。
そして芋洗い状態の京都の観光名所に比べて、静かなことこの上ない。
じっくり眺めるにはもってこい。
いや、ほんまにええなここ。
初めっからここに来てれぱ、家から30分で来れたのに。

返して、あたしの1560円。
時給にして1時半ただ働きや。

来年、ベストタイミングにもう一回東光寺来よう。

滋賀県の紅葉名所は商売っ気全くなし。
静かに眺めたい人にはうってつけ。


第十二番札所 白鹿背山 東光寺
〒527-0153 滋賀県東近江市平尾町718

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シャベリタリナイ夜

行って来ました!
『シャベリタリナイ!!HEPトーク5days アインシュタイン稲田×祇園木﨑の日』?

いつものクセでなんばに向かいかけて、「あ、ちゃうわ。梅田やわ。」と御堂筋線で切符買う直前で気付いた。
セーフ。

一旦JR線の中央出口まで舞い戻り、外に出てみる。
ぐるーっと見て回って、赤い観覧車発見。
でも、直線距離にして200メートルくらいのはずやのに、なんか道が無い?
地面続きで行く手段がない?
なんか、階段上がってほんでまた地下降りて、ウロチョロしてようやくHEP FIVEに辿り着いた。

どうなってんの、あれ? 
不親切にもほどがないか。
確実に1キロは歩いたで。
大阪駅前なんやから、スッと行けるようにしとけよ。
万博喜んでる場合ちゃうで。
日本人のあたしが迷うねんから、外国人観光客迷ってまうやろ。
それともあたしがトロいのか??

HEPホールと言えば、台風で行けなかった九馬さんのお芝居のホール。
「ここでお芝居してたんや…。」とちょっとキョロキョロしてたら、横の通路が開いてお二人登場。

「キャーっ❣️」ってな、歓声ほとんど上がらず。
ちょっとザワついた。

あたしの左隣の女の子が、稲ちゃんがすぐ側を通るのには目もくれず、「えー、木﨑君こっち来て欲しい~!」と言い続けてたわ。
ご報告まで。

稲ちゃんと木﨑君、お揃いの柄柄プリントのTシャツ着てる。
このトークライブ用に揃えた衣装なんかと思ってたら、ガチ私服やった。

「え?衣装ちゃうの?」
「私服としてその服チョイスする?」
その柄のどこに惹かれて買うわけ??」
「どこかのブランド?」
5分くらい心の中で私服イジりした。

でもトークライブは面白かった。
なんか、ほっこりした。

同期で仲良しのわちゃわちゃ感、いや、イチャイチャ感?
シンプルに羨ましい。

NSCに入った時に一体何組入ったのか知らへんけど、授業にいつの間にかこーへんようになる奴が居たり、売れずに辞めて行ったり、コンビ別れしたり…。
淘汰されて淘汰されて、今も続けてて確実に売れて行ってる二組のボケ同士。
なんか、いいなぁ。

普段アニキに怒られまくってる稲ちゃんが、今日はとってもリラックスしてて、それがまた楽しい。

しかし、稲ちゃんの顔は真正面からでもじーっと見れるこの不思議。
GACKTネタ放り込んでくれたり、最後に側まで来てくれたり、深読みどころか勘違いやろうけど、やっぱ優しいね、稲ちゃんは。

『そのアゴは優しさだけで出来ている。』

木﨑君、金色スーツより私服の方が小っちゃいな!!

あ、スーツと言えば、櫻井君の漫才スーツのパンツのフォルムの可笑しさは、あたしもずっと思ってた!
上着の短さも!
みんな変や思ってんねんや、思ったらなんかスッとしたわ。(笑)
けど、あれは櫻井君やから成立してるねんで。
稲ちゃん着てみ。
ヴィヴィアンから文句言うて来るで。

ライブの最後、ジャンケンで木﨑君の着てたTシャツをプレゼントする事に。
木﨑君、本気であのTシャツ気に入ってんねんや。
君の趣味が分からんわ。

木﨑君について、Tシャツイジりしかしてへんわ。
ま、ほんでええやろ。

「気い付けて、すぐ帰りや。」

明日、ちゃうわ(おコタでうたた寝してたらこんな時間)今日からまた頑張ろう。

ホンマにシャベリタリひんかったね。

コーヒー 一杯 4000円

あたしのラブホテルデビューの相手は、自営業の60歳くらいのおじさん社長だった。


当時のあたしは今より太っていて、ピチピチというよりはむっちむち。

派遣社員としてディーラーのメカニックの事務員をしてたけど、何故か営業さんに可愛がってもらってた。

そこに出入りしてたのが、おじさん社長。
ディーラーでは基本、純正部品を使用して修理する。
でも部品自体に少し修正をかけたり、純正部品の納品に日数が掛かる場合におじさん社長が部品を持ってやって来る。
納品された部品の検品はあたしの仕事だったので、自然とおじさん社長と口を聞くようになった。

別に特別な話をする訳じゃない。
「どうや、元気にしてるか?」とか
「毎日暑いなぁー。」とか、そんな他愛もない話ばかり。

カニックの人達は職人気質の人が多くて、じっくり喋ると面白い人達なんやけど、基本みんなプライドが高いし、口下手な人が多かった。
営業さんとメカニックの間には微妙なライバル意識みたいなのがあって、たまに出方を間違うとメカニックの人達に怒られたりして、あたしなりに結構神経を使ってて、ちょっとおじさん社長に愚痴をこぼしたりしてた。

そんなある日、おじさん社長に
「どや?一回旨いもんでも食べに行こか?」と誘われた。
男の人とご飯行くのに特に抵抗はなくて、むしろバブルの泡がまだ完全に消えてない頃だったので、営業さん達にフランス料理をご馳走になったり、お寿司を食べに岐阜まで連れて行ってもらったりしてた。
その延長戦上で、軽い気持ちで
「行きましょう!何処連れてってくれるんですか?」
と聞くと
「一回焼肉でもどや?」となった。

三人姉妹のあたしは、家族で外食する時に焼肉が候補に上がる事は全くなくて、お肉を食べるなら鉄板焼きかステーキかじゃぶじゃぶだったので、焼肉屋さんに連れて行ってもらえるのは魅力的だった。

「嬉しい⤴焼肉ってほとんど行った事ないんですぅ。」
「ほうか、ほんなら今度仕事終わった後に連れてってあげるわ。」
かくして、二、三日後、あたしはおじさん社長と真向かいで、焼肉屋さん初体験を迎える事になる。

特段綺麗なお店でも、高級なお店でもなかった。
国道沿いのよくある普通の焼肉屋さんだ。
でも、ほぼ初めて食べる焼肉は美味しかったし、お腹一杯ご馳走になってとっても満足だった。

「あ~美味しかったぁ。ご馳走様でした。」
「そうか、旨かったか?」
「はいっ!(笑顔)」

そろそろお会計という頃になって、
「どや?ちょっと一服して行くか?」とおじさん社長が言って来た。
一服?もうお腹一杯で何にも入らへんけど、喫茶店でお茶でもするのかな?と思って
「はーい。」と答えた。

おじさん社長の運転で、琵琶湖岸に向かって走った。
“何処連れてってくれはるんやろう?”
ほどなくして、彦根プリンスホテルが見えて来た。
“えー、プリンスホテルでお茶させてくれはるの?ラッキー⤴”と思ってたら、プリンスホテルの手前で右斜めの道に進んで行った。

“なんや、プリンスホテルじゃないのか。こんな方に喫茶店なんかあるんや。”
あまり土地勘のない道に車は進んで行った。
心の中でちょっと?マークを浮かべたまま、呑気なあたしはおじさん社長にずっと話し掛けてた。

そして

安っぽいネオンがピカピカ光る建物が現れて、車はビニールのシートみたいなのをくぐって入った。

あーれ~~~

なんぼなんでも、そこが喫茶店じゃない事くらい、22歳のあたしでも分かった。

無茶苦茶腹が立って、
「何考えてるんですかッ‼」
「降ろして下さいッ!歩いて帰りますッ!」
おじさん社長は急に猫なで声になって
「怒らんといてーや。ちょっと一服だけして行こう、な?な?」
とめげなかった。
車の中で5~6分言い合いしただろうか。
おじさん社長は
「な、ほしたらコーヒー一杯だけ中で飲もう?そしたら帰ったらええし。な?な?」と粘り倒した。

当時ラブホテル未体験のあたしの心の中に、段々
“ラブホテルって一体どんなとこなんやろ?”
と好奇心がむくむくと頭をもたげて来た。
“一回どんなどこか見てみたい…。”

好奇心が勝った。

それにおじさん社長はあたしからしたら、チョロい相手に思えた。
なんとか切り抜けられる。
ミョーな自信があった。

「ホンマにコーヒー飲むだけですよ。」
「そや。ホンマにコーヒー飲んだら帰ろな。」

初めてラブホテルの扉を開けた。

ラブホテルって、てっきりベッドが回ってるもんやと思ってた。
ボタン一つで円形のベッドがゆっくり回って、ミラーボールみたいな照明が色々切り替わる。
アメニティみたいなのが、色々取り揃えてあって、エロス+高級ホテルみたいなもんやと思ってた。
でも、ちっとも想像と合ってなかった。

お風呂も覗いた。
『スケベ椅子』なる物があるんかと思ってたのに、置いてなかった。

〝な~んや。なんか想像してたのと違う。〟
〝もっとキラキラしたとこやと思ってたのに〟
〝ショボ。暗。〟

あたしがあちこち見て回ってる間に、おじさん社長は本当にテーブルでコーヒーを煎れていた。

もう見て回るとこもなくなって、テーブルの前に座ってコーヒーを飲んだ。
ただのインスタントコーヒーやった。

コーヒーカップをテーブルに置いたのと同時に、おじさん社長が覆い被さって来た。

「コーヒー飲んだら帰る約束でしたよね。」

正面切っておじさん社長の目を射抜くように見て、これ以上冷たい声は出ない。というくらいの声で言い放った。

おじさん社長は怯んで、
「な?ちょっとだけ、ちょっとだけ。」って半分泣き顔で懇願して来た。

「コーヒーはもう飲みましたから、帰ります。」

そう言って立ち上がった私に、おじさん社長が再び覆い被さって来ることはなかった。

後ろから呻くような声で、「コーヒー一杯で4000円か…。高うついた…。」とそう言いながら、あたしの後を付いて来た。


恐ろしい。
男の人をナメるにも程がある。

よく何も起こらず無事に帰してもらえたもんだ。

なんであんなに自信があったんやろう?

次の日から、おじさん社長は私が働くディーラーに部品を持ってやって来ても、あたしと目を合わせる事はなくなった。

この事は誰にも話してなかったのに、一番仲良かった営業さんがやって来て、
「お前らなんかあったやろ?」と聞いて来たのにはびっくりした。
なんか、そっちの方がよっぽど怖かった。

でもエピソードトークとして事の顛末を話したら、涙を流して爆笑されて、あんまりオモロイからとイタリアンをご馳走してもらえた。
その時に生まれて初めて食べたティラミスは、死ぬ程美味しくて、今でもあたしのナンバーワンスイーツだ。

ちなみにおじさん社長に食べに連れて行ってもらった焼肉屋さんは、今でも国道沿いで営業している。
もう立派な地元の老舗だ。

あのラブホテルはまだあるんやろうか?

今度プリンスホテル行ったら、ちょっと寄り道して確かめて来よう。
でもあの時でかなりボロッちぃかったから、もうさすがにないやろな。

おじさん社長が経営していた、本当に小さなラジエーター屋も潰れて無い。

あたしが潰した訳じゃないもんね。

よく芸能ゴシップで、「ラブホテル行くには行ったけど、話をしてただけで、皆さんが想像するような事は何もしてません。」ってのがあるけど、あれを聞く度に、
「ホンマにそういう事ってあるねんで。」とテレビに向かって突っ込むのが、あたしのお決まりだ。

あれから30年経って、回らないシングルベッドで、あたしはゆっくり眠る。



本日11月27日、ただ今22:00。

アニキ、
38歳くらいから、びっくりするくらい老けるで。
ほな。

神様がいた夜

久しぶりに加藤クリニックで同室だった友達からlineが来た。

手術したのと反対の胸にエコーで7ミリの影が見つかって、病理検査に出してるとのことだった。

自分の事のようにドキドキする。
でも、乳癌専門医院として、大阪や京都からも患者さんが受診しにやって来るクリニックの主治医が、「多分大丈夫。念の為。」と言ってくれてるなら、きっと大丈夫!

私達四人は、加藤クリニックに一部屋だけある四人部屋で、術後一週間を共に過ごした仲間だ。

乳癌と一口に言っても、癌のタイプやどの部分に癌が出来て、温存手術なのか全摘手術なのか様々だ。
でもやはりデリケートな病気だし、何より女性にとって胸にメスを入れ乳房を部分的であれ失うというのは、男の人には分からないショックがある。

でも、同室になった三人は、年齢も40代50代70代とバラバラだったけど、みんな本当に明るい人達だった。
一人でもショックに沈んで、誰とも話したくないと思っている人が居たなら、あれだけ楽しい一週間を過ごせなかった。
自分の左乳房を失って尚、楽しい一週間だったと言える私は幸せだ。

私達四人は全員北斗晶さんに救われている。

私以外の三人は、北斗晶さんが乳癌を公表したニュースを見て、自分の胸にシコリがあるのを発見して受診、手術の運びになった。
会見を見ていなかったら、乳癌に気付いていなかったかもしれない。

私の場合はちょっと違う。

3年前、暑くてしばらくシャワーだけで済ましていた夏。
9月に入り、久しぶりにゆっくり湯船に浸かってふと自分の胸を見たら、左乳首が陥没していた。

「何これ?」
左乳首に手をやると、「コリッ」と確かなシコリがあった。
とっさに「あ、これは乳癌や。」と思った。

私の3歳上の真ん中の姉が、私と同じ48歳で乳癌になり、左乳房を温存手術し、抗癌剤放射線治療を経て、ようやく元気になってくれた矢先だった。

「あ、とうとう来た。」そんな気持ちだった。

姉の辛い辛い闘病を家族として見て来て、代わってあげることも出来ない、なんとか元気になって欲しいと祈る事しか出来ない。
それが辛かった。
検査の結果で再発なし。と聞く度に胸をなで下ろし、本当にようやくみんなが明るい気持ちになれたそんな矢先。

誰にも言う訳にはいかなかった。
勿論一番辛いのは当事者だ。
でも、見守る事しか出来ない辛さを三年間経験して、上のお姉ちゃんやお母さんが一喜一憂するのを見て来て、今度は私が乳癌かもしれないなんて、絶対に言い出せなかったし、言うべきじゃないと思った。
もしかしたら、違うかもしれない。
だったら、余計な心配をかける必要はない。

姉が受診している加藤クリニックに予約の電話を入れた。
二週間待つ事になった。

この二週間の間に乳首に痛みが出て来た。
ネットで調べると、乳癌の症状に痛みと書かれているのは、ほぼなかった。
だから、逆に「もしかしたらただの乳腺炎かもしれない。」と思い始めた。
乳癌か乳腺炎か。
五分五分の狭間で揺れるようになった。

そして診察日。

先生の見立ても五分五分だった。
乳首に太い針を刺されて、爪が折れるかと思うくらいギューッと手を握り締め、文字通り歯を食いしばって涙を流しながら必死に痛みに耐えて、病理検査に出す事になった。

結果が出るまで更に二週間。
そんな時に、あの会見が繰り返しニュースになって報道された。

北斗晶さんの乳癌と気付き手術に至るまでの経緯を綴ったブログは、私の症状と全く同じだった。
乳腺炎なんかじゃない。これはやっぱり乳癌や。」

診察結果を一人で聞きに行った。

「検査の結果は癌でした。」
「やっぱり。北斗晶さんの会見を見て、絶対あたしも癌やわと思ってたんです。」
「そう、北斗晶さんと全く同じケースです。」
そう言って、先生はにっこり笑った。
 
こんな時に先生笑うんや…。
私もつられて少し笑った。

〝絶対癌なんかじゃない。癌じゃないと言って。〟と、思って結果を聞くのと、〝きっと癌やわ。〟と思って結果を聞くのでは、天と地程の差がある。

先生の口から告げられた結果を受け止めるクッションを、私は北斗晶さんからもらったのだ。

でも次の言葉は全くの想定外だった。

「〇〇さんの場合は、乳癌が乳首の真下にあるので、乳房は全摘出します。」
「え?全摘なんですか?」
笑う余裕は全く無くなっていた。

自分が乳癌だと言うシミュレーションは十分して来た。
でもそのシミュレーションに全摘は含まれてなかった。

先生がよどみなく話す治療方法、癌のタイプ、進行具合、手術の方法。
手帳に必死で書き留めた。

書いている内に頭が冷静になった。
私にとって文書を書くという行為は、自分自身を客観視する為に必要不可欠な行為だ。

書きながら「神様はやっぱりちゃんと一人一人の事をホンマによく見てる。」そう思えて来た。

私は子供の頃から『やれば出来るのにやらない。』『欲が無い。』散々そう言われて来た。
いつも楽な方楽な方を選んで来た。
お父さんに「この家で怠けもんはお前だけやッ!!」と怒鳴られてシバかれそうになったこともある。
ずっと〝こんなままじゃアカン〟〝その内痛い目にあうかも〟そう思って来た。
この話をすると、「頑張ってお米作ってるやん。凄いわ。」と言ってくれる人が居る。
でも私は、農業が好きでやってるのではない。
紫外線アレルギーなので、毎年何度も何度も熱中症でダウンする。
農業は私にとって苦しいものでしかない。
ご先祖様が居て繋いで来て下さった土地にありったけの愛情を注いで、朝から晩まで汗を流して守って来たお父さんの想いが、自分の身体に残っているから作っている。
ただそれだけだ。
農家なら誰でもしている事を、特段な工夫をする訳でもなく、それでもお米が美味しいと言ってもらえるのは、土が持つ力だ。
それだけお米作りに適した土地だと言う事。
私の努力など余り関係ない。
と言うか、努力らしい努力もしてない。

ダラダラダラダラ生きて来てしまった。
自分の生き方を振り返って、こんな感想しか持てない。
だから、神様が最後のチャンスをくれたのかな?
「もういい加減生き方変えないと知らないぞ。」
神様がそう言っている。書きながらそう思えて来た。

説明を全部聞き終えた時には、もの凄く落ち着いていた。
たまらなく冷静だった。
全摘かぁ…。仕方ないな。
『胸より命』
これは北斗晶さんが会見で言っていた言葉だ。
私も口に出さずに心の中で言っていた。
そして、北斗晶さんに足を向けて寝れないな。
そう思ってちょっと笑った。

加藤クリニックを出て駅に向かう帰り道。
頭の中は〝お母さんやお姉ちゃん達になんて言おう〟それで一杯だった。

自分が癌になるのは仕方ない。
きっとそういう運命だっのだ。
でも家族は違う。

私は14歳の時を皮切りに、幾度となく精神のバランスを崩した。
その度にお父さん、お母さん、お姉ちゃん達。
言い尽くせない程の心配と迷惑をかけて来た。

もう二度と心配掛けたくない。
そう思って自分を守る為に、他人との距離を取り、眠れなくなってきたら薬を飲んででも寝るように気を付けて、やっと三十代半ばになって落ち着いて来たのに。
また心配を掛けてしまう。
なんの為に生まれて来たのか。
私が家族で居て良かった事なんてあるのか。
打ち消しても打ち消しても、ネガティブな考えしか浮かんで来なくて、クリニックではあんなに冷静で居られたのに、ぼーっとしている間に駅まで着いてしまった。

お姉ちゃん達に伝えなきゃ。

電話する勇気は出なくてlineした。
手帳に書き留めた事実を事細かにlineした。
今思えば、平日の仕事中にlineする事ではなかった。
冷静さを欠いていた。

びっくりしたお姉ちゃん達から電話が掛かってきた。
「ごめん…。」そう言うのがやっとだった。

お姉ちゃん達は優しい。
頼りない末っ子の私をいつもフォローしてくれる。
お母さんの容赦ない要求に「頑張ってやるんやから、もうあんまり言わんといたり。」と怒ってくれたりする。
私はお父さんとお母さんとずーっと暮らしたくて、望んで家に残った。
お姉ちゃんが旦那さんの悪口や、子供の悪口を言うのを聞いた事がない。
色んな人を見て来て、これがどんなに凄い事か、どんなに素晴らしい事か、独身の私にでもよく分かる。
なのに、お姉ちゃん達は私にしんどい事を押し付けたみたいな負い目を感じてくれている。
それがまた申し訳なかった。
私が幸せそうなら、お姉ちゃん達にそんな負い目を感じさせずに済むのに。

「お母さんになんて言おう。」
お姉ちゃん達には素直に一番不安に思っている事を言えた。
「事実を言うしかないな。」
自分が思ってた事をお姉ちゃんに言ってもらえて、やっと落ち着いた。
お姉ちゃんありがとう。

帰りの電車の中、なんてお母さんに言うかシミュレーションした。

私は絶対泣かない。
事実を淡々と伝える。
そして謝る。

駅に着いて、自分の車に乗り込んでハンドルを握り、選んだのは音楽ではなくてラジオだった。
音楽を聴いてせっかく落ち着いた心を乱されるのが怖かった。
ただ人の話す声を聴きたかった。

流れて来たのは、大好きな上ちゃんの『ええなぁ』
ラジオの内容はもう全く覚えてない。
ただ大好きな上ちゃんの優しい声のジングルを聴きながら、「こんな時でも上ちゃん、ええなぁ言うんや。」小さな声で突っ込んだら、ダムが決壊した。
号泣してしまって、路肩に車を停めて40分程動けなくなってしまった。

でもこれが良かった。
頭が痛くなる程泣いたらスッキリした。
もう一度、
私は絶対泣かない。
事実を淡々と伝える。
そして謝る。
この気持ちに立ち返る事が出来た。

家に帰って誓った三項目を実践出来た。

お母さんは私の話を聞いた後
「なんでこんな事なってしもたんやいね。」
たった一言そう言った。

そしてその後、いつもと同じように夕ご飯を食べ、いつもと同じようにお風呂に入り、いつもと同じように「もう寝るで。」と言って自分の部屋に入って行った。

有り難かった。
泣き崩れられたらどうしようと恐れてたのに、本当に救われた。

お母さんは強い。
もしかしたら私が弱っちい分、強くならざるを得なかったのかもしれない。

でも、本当に大丈夫だろうか。
自分の部屋で声を押し殺して泣いてたらどうしよう。
そーっとお母さんの部屋の前に立った。

いつもと同じイビキが聞こえて来た。

こんな時でもイビキかいて寝れるんや!
凄いな、お母さん!
さすがやわ!

なんか、笑えて笑えて、本当に声を出して笑った。

そして自分の笑い声を聞きながら、『あ、あたし笑えてる。大丈夫やわ。』そう思えた。
お母さんにまたひとつ助けてもらえた。

同時にお父さんが亡くなっていて本当に良かったと思った。

お父さんは、お母さんのようには受け止められなかっただろう。
全く怒る必要のなかったお姉ちゃん達に比べて、勉強もしない、根気も無い、それでも一番気持ちが優しいと一度だけ言ってくれたお父さんはもう居ない。

お父さんに心配かけずに済んだ。

やっぱり神様は一人一人の事を本当によく見ていてくれる。

しみじみそう思った夜だった。

四半世紀前の記念写真

㊗️ 大阪万博 決定!!!

前回の1970年の大阪万博

あたし3歳。
初めて家族揃って出掛けた遠出の旅行。
出掛ける前に、いとこの家の前でパチリ。
現存するというか、ホンマにそれがあたしの一番古い写真。

3歳が。
赤ちゃん時代の写真、一枚もなし。
お父さんに「なんであたしの赤ちゃんの時の写真一枚もないの?」と聞いたら、「お前が生まれた時は、カメラが壊れてあらへんかった。」

そうですか………。
昭和40年代生まれの3番目の子供なんてこんなもん。

でも、いとこの家の前で黄緑色のワンピースを着て、ちょっと右膝曲げて撮ってもらった現存する一番古いあたしの写真を見てみたくなって、アルバムひっくり返したら、何故か無い!
なんで?
どこやったんやろ?

あちこちひっくり返してたら、懐かしくてまた予定外の時間が経過。

久しぶりに髪の毛短くしたと思ってたけど、結構今とおんなじような髪型してたわ。

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1993年という事は、四半世紀前!!
あたし26歳。
アメリカ、カナダ旅行での一枚。

レンタカー借りて、アメリカ~カナダのトロント、ナイアガラの滝、etc.
楽しかったなぁ~。

若い頃は今よりお金持ってたので、
香港、シンガポール、バリ島、アメリカ、カナダ、タイ。
結構海外旅行行ってたな。
なんか、年々貧乏になっていってる…。

海外旅行は日常とかけ離れてるので、信じられないエピソード満載!
こんな事ってある??ってな事がよく起こった。

51年も生きてると色々あるもんですな。


そして、もう一枚。

18年飼ってた愛しのアホ犬、樹里の写真も発掘。
ピンボケがまた可愛いと思うのは、飼い主あるある?

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祇園のマルセイユ

ウケタモンガチ! グランドチャンピオンシップ』をやっと見る。
OAが10/8やったから、一ヶ月半遅れ。
なんか、なかなか録画しといたのを見る時間が取れんくて、録画溜まる一方なんやけど。

しかし、アニキ サラリーマンスーツ似合わへんね。
思いっ切りスーツに着られてるがな。
ものすごい仕事出来ひんペラペラの営業マンっちゅー感じ。

服って大事やわ。

でも、劇場で生で観て面白かったやつは、テレビサイズで見てもちゃんと面白いねんな。

みーんな、面白かったけど、マルセイユのネタは阪神ファンにとってめちゃ嬉しい。

マルセイユを初めて観たのは、7月に祇園花月であった『浴衣de漫才2018』

この時、やっと友達誘って二人で行けると思ってたら、この日は無茶苦茶暑い日で、友達が熱中症になってキャンセル。
え~、余ったチケットどうしよう…。
空席も嫌やしなぁ~。と思って、生まれて初めてTwitterで「チケット譲ります」をやった。

慣れない事に、なんかやたらドキドキして、どうしたらええんやろ??と思ってたけど、ほどなくして「譲って欲しいです。」という子が現れて、無事祇園花月の入り口で定価で渡せた。

その子は色白のふわっとした感じの無茶苦茶可愛い女の子やった。
二十歳くらい?

あたしは年上の人と喋るのは得意というか、なんか落ち着く。
でも自分が年とるに従って、年下と喋るのは無茶苦茶気を遣うようになった。
若い子に気を遣わせてるかなぁ…とか、
この話興味ないかもな…。とか、余分な事で頭ん中が一杯になって疲れる。

でもこの時は、チケット無駄にならずに済んで有り難かったので、頑張って少し話し掛けてみた。

あたし「今日は誰を観に来たん?」
女の子「マルセイユです。」
あたし「そうなんや。あたしマルセイユは今日が初めて。凄いファンなん?」
女の子「朝からずっとマルセイユ追い掛けてて、さっきまで大阪に居たんです。」
あたし「へえ~!そんなに好きなんや。」

こんな可愛い女の子が追い掛けてるマルセイユってどんなんやろ?
と言うか、マルセイユって誰?
若い子に失礼があってはいけない。
スマホでこっそりマルセイユの基本情報を得る。

マルセイユマルセイユ…。
別府君と津田君ね。
なるほど。
興味津々で浴衣de漫才が始まった。

ウケタモンガチと同じネタやったけど、テンポも良くてツッコミが軽快で、無茶苦茶面白かった!
動きもあってそれがピタッピタッと決まるから観てて気持ちいい。
それに何より、鳥谷の応援歌がネタに出て来るという事は阪神ファン
じゃなくてもプロ野球好き?

もうこれだけで親近感1・5倍増し。

浴衣de漫才が終わって、思わず隣の女の子に
あたし「マルセイユ面白かったねぇー。凄いウケてたし。どっちのファンなん?別府君?」
女の子「(喰い気味に)違います!津田君です。」
あたし「津田君ね、今日はありがとう。もしかしたらまた劇場で会うかもしれへんね。」
女の子「はい。ありがとうございました。」

今までで一番のTwitterの有効利用やったかも。

いや、ホンマに可愛い女の子やったよ。
芸人さんてモテるんやなぁ~と実感した祇園の夜でしたわ。