稀代の漫才師
月、火、水で今日しか夜の予定が空いてなくて、最終日のチケット取ったけど。
まぁ~、知らん芸人さんばっかしやったわぁー。
改めて、色んな芸人さんが居てはるもんやと。
さすがに42組観るのは、観る方にも体力も集中力も求められる。
途中、寝たもんなぁ~。
けど、さすがに漫才劇場に出て来る芸人さんは、やっぱりワンランク上やった。
明らかに差があった。
上手さもそうやけど、場慣れ感に圧倒的な差があった。
やはり全国に常設の劇場を持ち、毎日毎日漫才をする機会があって、テレビを点ければよしもと所属の芸人さんがMCしてはる番組が山とある。
必然的に番組に呼ばれる可能性も高い訳で。
ギャラが安いとか、待遇がえげつないとか、色々あるやろうけど、『漫才が出来る』という一点においては、よしもと以上の環境はないんだと思う。
10回の稽古より、1回の本番が芸人さんを育てる。
きっとそういうもんなんだ。
高校生の頃の私は、『身内の恥より目先の笑い』が座右の名のちょっと痛い女の子だった。
そんな私のヒーローは島田紳助さんだった。
第一次お笑いブームと呼ばれた頃、巨人阪神、太平サブロー・シロー、ザ・ぼんち、ツービート、B&B…。
まさしく漫才師が世の中を席巻してたあの頃。
紳助竜介を初めてテレビで見た時の衝撃は凄かった。
それまでの漫才のイメージは、ビシッとスーツを着て、言葉もハッキリクッキリ。
漫才ってちゃんと台本があるんやなと子供心に思ってた。
それが紳助竜介は、リーゼントにつなぎの衣装。
どこの組の構成員かと思うような出で立ち。
見た目のインパクトも凄かったけど、漫才のスピードが桁違いだった。
紳竜以前の漫才が、万人のお客さんに笑ってもらえるよう、配慮したものだったのに対し、紳竜の漫才は、「付いて来れるもんだけ付いて来い!」みたいな漫才だった。
もの凄い早口で、バンバンその時の流行りを斬っていく。
ツッコミ対ボケの割合が、9対1くらいなのも、衝撃だった。
「これで漫才って成立するんや。」私は口開いてテレビの前に座ってた。
後に『うなずきトリオ』として、竜介さんが面白がられた時、『うなずきトリオ』って上手い事言うなぁって喜んだ。
島田紳助という漫才師の頭の中にあるネタが溢れ出すスピードを、そのままぶつけてはお茶の間が付いて行けない。
茶の間が息継ぎしやすいように、竜介さんが合いの手を入れる。
そんな漫才だった。
やがて漫才ブームが去って、紳助さんはテレビのMCとして、改めて茶の間を席巻し、竜介さんをテレビで見る事はなくなった。
紳助さんの出てる番組は、ほぼ欠かさずチェックしていた私の頭の中に、もう紳竜の漫才を観る事はないんかなという寂しさがいつもあった。
それが、あの人は今みたいな番組で、本当に十何年振りくらいに竜介さんを見た。
テレビで大活躍してる紳助さんを見てどういう気持ちですか?みたいな質問に、竜介さんは若い頃と変わらない愛くるしい笑顔で、一点の曇りもない笑顔で
「無茶苦茶嬉しいよ!だって俺が島田紳助の一番のファンやもん!」
「また漫才は出来たら楽しいよね。」って答えてくれた。
嬉しくて、羨ましくて、なんかホッとして、ポロポロ泣いたのを覚えてる。
もしかしたらまた紳竜の漫才が観れるかもしれない。
テレビでしか漫才を観た事のない私は、もし紳助竜介が一夜限りの復活漫才をするなら、仕事休んででも絶対観に行く!って心に誓った。
もしかしたらまたあのつなぎを着て漫才してくれるかな。
その時はやっぱり大阪でしてくれるやんな。
考えるだけで嬉しかった。
まさか、紳助さんが吉本興業を辞める日が来るなんて夢にも思わなかった。
あの時の真相は分からない。
一般的に暴力団と呼ばれる人と一緒に映ってる写真が存在するという事は、多分全く知らない仲ではなかったんだろう。
でも、誰よりも義理人情に厚い人だったのだ。
相手の職業や立場に関係なく、その場その時その人となりを面白がり、感動出来る人だったのだ。
それが今の世の中のコンプライアンスに合わなくなった。
そういう事なんだろう。
でも、それでも吉本興業が紳助さんを切るとは思わなかった。
漫才ブームを先頭に立って牽引し、テレビの世界に吉本興業の芸人さんの居場所を開拓し、もう一度漫才の面白さを世の中に伝えるんやと、ほとばしる熱さでM-1を産んでくれた。
その島田紳助を吉本興業が切るのかと…。
勿論、私達ファンの知るよしもないやり取りがあって、紳助さん自身が決断して辞めたのだから、私のようなただの一ファンがどうこう言うべき事ではない。
それでも、もう紳助竜介の漫才を観る夢は叶わなくなったという喪失感は今も鉛のように私の胸に有る。
関西の僻地だけど、いつでも大阪の劇場に行こうと思えば行ける滋賀県に住んで居ながら、劇場に足を踏み入れなかったのは、『劇場デビューは紳竜の復活漫才で。』という自分の憧れがあったからだ。
紳竜の漫才を劇場で一度も観てないのに、ずっとずっと後輩の芸人さんの漫才を観に行くというのが、大げさに言えば、紳助竜介への裏切りみたいな気がして。
そして、私の憧れが叶う事は本当になくなった。
竜介さんという相方を、紳助さんは永遠に失ってしまった。
あの時も、紳助さんはテレビカメラの前でほとんど語らなかった。
その事が余計紳助さんの喪失感を表しているようで、私は何も言えなかった。
もういいか。
変なこだわりを捨てて、劇場に足を運んでみようか。
それが今年劇場に足を踏み入れた時の気持ちだった。
アホくさくなった。
いつまでも変なこだわりを引きずってた自分が。
なんでもっと早く観に来なかったんやろっ。
凄い損してた気がする。
ちょっとだけ紳助さんを恨んだ。
去年のM-1。
松っちゃんが、「本当は隣に紳助さんが居てくれたら一番良かったんでしょうけど。」と言ってくれたのは嬉しかった。
テレビで紳助さんの事に触れるのはタブーみたいな空気の中で、敢えて敬意を表して触れてくれたような気がして。
松っちゃんと言えば。
NSC一期生の講師として、紳助さんや巨人さんサブローさんらが行った後、
「どうやった?」
「一組だけええのがおったな。」
「おう、おったな。」
それが、後のダウンタウンやったというあのエピソードがもの凄く好きだ。
初めてダウンタウンの漫才を観た時の、自分の嗅覚にお墨付きをもらったみたいで誇らしかった。
誰の漫才が一番面白いか。
これを日本中に打ち出したM-1グランプリの功績はとてつもない。
若手芸人さんが身震いしながら、挑み続ける姿を、紳助さんは一体何処で観てはるんやろう?
そして十年後、二十年後、テレビを席巻している漫才師さんの一番尖って熱い頃を、私はこの目で観て来たんやで。と未来の私は誰かに話してるのかもしれない。
もしかしたら、いやきっと私はとてつもなく贅沢な時間を過ごしているのだ。
どうか、みんな悔いのないように。