ジャンパーとお猪口一杯の吟醸酒

明日2月15日は、お父さんの23回目の命日。

62歳で亡くなったお父さんの歳に、もう10年経ったら自分がなるなんて、信じられない気持ちが強い。

日の出と共に起き、田んぼで朝仕事した後シャワー浴びて出勤。
仕事から帰って来て日暮れまで田んぼで農作業した後、一旦家に帰って来てシャワーを浴びて、夜は勤務する肥料会社の集金に回ったりしていたお父さん。
本当に働きづめだった。

競馬やギャンブルもしなかったし、たまにパチンコする程度で、唯一の楽しみがお酒。
毎日晩酌した後は、ステテコ姿でナイター中継を見ながら、いつの間にか畳の上で大の字になってうたた寝してしまう。
でも汚いとかだらしないと思った事は一度もなかった。
物心ついた時から働きづめの姿を見て来たので、好きなお酒くらい自由に飲んで欲しかった。

お父さんの土の染み込んだ黒い皺が刻まれた太い指が好きだった。
あの指を見ると、反抗心もすーっと収まった。
綺麗好きなお父さんは、一日に何度もシャワーを浴びて下着も着替えて、他人に汗臭く思われないよう、とても気を付けていた。
それでも落ちない指の皺の黒さは、お父さんの人生そのものだ。

肥料会社で貰うお給料は安くて、お米を売ったお金で貯金をし、私達三人の娘には、一切不自由な想いをさせなかった。
その分自分は洋服を新調する事もほとんどなかったし、お酒も
「わしが飲んでるのは3級酒や。」とよく笑いながら言っていた。
その意味が子供の私にはよく分かってなかった。
高校生になって、お父さんがいつもお酒を配達してもらっている町内の酒屋さんにおつかいに行った時。
レジを待つ間、店内を見渡してもお父さんがいつも飲んでいるお酒が見当たらなかった。
あれ、こんなに沢山お酒あるのに…。って端から端まで目をやって一番端っこに置いてあるのを見付けた。
びっくりするくらい安かった。
そのお店のお酒の中で一番安かった。
お父さんの言う3級酒の意味がやっと分かった。
おつかい済ませて自転車で家に帰る時、なんだかたまらない気持ちになって、真っ直ぐ家に帰れなくて、遠回りして帰った。
自転車こぎながら「〝もうお酒ばっかし飲んで…〟なんて絶対言わんとこ」って誓った。

もうすぐ春がやって来る。
農閑期は終わっていよいよ田んぼシーズン到来。
無茶苦茶寒がりの私は、目一杯着込んでお父さんの形見のジャンパーを着てトラクターに乗る。
いつもお父さんが冬になると着ていたドカジャンは、洗ってビニール袋に入れてしまっておいたのを、古着回収の日にお母さんがよく確かめないで出してしまって失った。
普段お母さんに声を荒げる事はほとんどしない私が、我を失って怒鳴ってしまうくらい、ショックだった。
今着ているジャンパーは、ドカジャンに比べるとずっと薄手で、防寒には余りなってない。
数え切れないくらい洗っているので、防水機能も全くない。
今は防寒機能も防水機能も備えてて、尚且つお洒落な作業着が、そんなにお金出さなくてもいくらでも買える。
でもやっぱりお父さんのジャンパーでないと落ち着かない。
お父さんが現役でバリバリ働いてた時に着てた物だから、もう30年くらい前の物になる。
ビンテージ物だ。

お父さんが亡くなってから、農機具屋さんに一から教えてもらって始めたお米作り。
結構危ない経験もして来た。

ラクターに片培土板を装着して、畦周りの排水用の溝を掘る作業。
作業が終わってトラクターで田んぼから出る時、本当ならトラクターを出してから、入り口の傾斜部分はスコップで手掘りする。
でもなんだか面倒くさくなって、入り口付近もトラクターで溝を掘ってしまってから、出ようとした。
後輪がその溝にはまって、前輪が浮いてウィリーみたいな状態になった。
ハンドルにしがみついて、なんとか軌道修正しようと試みたけど、ゆっくりトラクターは横転し始めた。
「アカン、逃げよう。」
もう1秒飛び降りるのが遅かったら、下敷きになっていた。
ドーンという音と共に横転したトラクターの横でへたり込んだ。
横転しながらもエンジンの唸りをあげ続けるトラクター。
「エンジン切らなきゃ…。」立ち上がる時、ブルブル足が震えた。
人生であんなに足が震えた事は、後にも先にもない。
「どうしよう…。大変な事になった…。」
私に一から農機具の使い方を教えてくれて、いつも修理をお願いしてるSさんに電話した。
Sさん「おう、何や?」
私「トラクター横転させてしもた。」
Sさん「何やとっ?ほんでお前はどうもなかったんか?」
私「うん。あたしは飛び降りてどうもなかった。」
Sさん「ほうか!ほんならええ!今すぐ行ったるさかいな、待っとけよ!」
私「すみません。お願いします。」

Sさんが手配してくれたクレーン車が到着する頃には人が集まって、えらい騒ぎになってしまった。
もう絶対横着なんてせんとこう。作業を見守りながら、固く心に誓った。
ラクターの引き上げ作業が終わって帰る時、
「お前になんかあったら、おとっつぁんに殺されるがな。」そう言ってSさんは笑った。

いつも修理が終わって帰る時、軽トラの中から私に向かって「怪我だけは気を付けいよ。」と必ず声を掛けてくれるSさんは、その時以来、運転席の窓を開けて顔を乗り出して声を掛けてくれるようになった。
Sさんの後ろにお父さんが居るみたいな気がしていた。
でも、そのSさんも引退してしまった。
なんだかとっても心細い。
その心細さをお父さんのジャンパーが包んでくれる。
私なら絶対選ばない、くすんだカーキ色のジャンパーは、タンスの中で今年も出番を待っている。

今朝も家を出る前にお仏壇に手を合わせた。
夕ご飯を食べる前には、おかずをちょっとずつ取り分けてお仏壇にお供えする。
お茶とお猪口に注いだお酒を添えて。
毎晩安い3級酒でご機嫌に酔っ払っていたお父さんに、せめてあの世では、美味しいお酒を飲んで欲しいと、必ず吟醸酒を買ってくる。
今はリカーショップで全国の吟醸酒が買える。
今度はこれにしようかな…。迷う時間も楽しい。
私もお母さんもお酒はほとんど飲まないのに、月に一度の資源瓶の回収の日には、袋一杯のお酒の瓶をゴミステーションに出す。
知らない人が見たら、凄い飲んべえの母子に見えるかなと思って、少し笑いながらゴミに出す。

私が結婚するなら、旦那さんになってくれる人は絶対お酒を飲める人が良かった。
「この家で怠け者はお前だけや。」とよく怒られていた私が出来る親孝行は、それくらいしか思い付かなかった。

その親孝行も果たせないまま亡くなってしまったお父さんに、今晩もお猪口一杯の吟醸酒をお供えする。

お父さん。
そちらでは誰とお酒を酌み交わしてますか?