#OFLIFE  野村尚平編

10/8に放送されて、録画しておいたOF LIFE を見た。

令和喜多みな実の野村君率いる『劇団コケコッコー』が関西演劇祭に挑戦した軌跡を、脚本、演出も手掛ける劇団代表の野村君に密着した番組。

告知されてから、ずっと気になりながら、見る勇気がなかなか出なかった。

羨ましい、悔しい、あたしは何をしてるんだという焦り。
きっと色んな感情が沸き上がって落ち着かなくなる。
そんな予感がしたから。

そして、予感は当たった。


私は舞台の板の上でお芝居がしたいと夢見ていた。

お笑いにも興味はあった。
高校の頃はネタ帳を持ち歩き、所々で一人漫談を披露したりしていた。
が、なんせ心の師匠が島田紳助さんだ。
あんな風に自分は絶対なれっこないと思ったし、修学旅行で250人の前で一人漫談してそこそこウケて、もうそれで満足してしまった。

お芝居に興味を抱いたのは物心ついた時から。

ドラマを見て気に入ったシーンがあると、一人で鏡に向かって練習してしまう子供だった。
上手い子役が出て来ると、「あたしの方が上手いのに。」と悔しくて悔しくてその子役が大嫌いになった。

本格的にお芝居に触れたのは高校入学してから。

新入生に向けて、各部が入部アピールを行う会で、どの部も紙に書いてきた原稿を読む中、歌いながら登場しミニコントまで披露して、体育館に集まった新入生250人の注目を独り占めした演劇部に心を射抜かれ入部した。

小学校4年から続けていたソフトボール部に入部するものだと思ってた父親には大反対された。
何度もしつこく勧誘してくれた、県内では常に優勝候補のソフトボール部の顧問に「演劇部に入ります。」と伝えたら、「演劇部?あんなんは学校の落ちこぼれの集まりやぞ。」と、どこかのドラマの台詞みたいな事を言われもした。

演劇部として活動した3年間は、ひたすら楽しかった。

1年の時の総文祭で滋賀県2位になり、和歌山県で行われた近畿大会に出場してからは、皆の熱意がよりパワーアップして、毎日遅くまで稽古して、運動部よりも帰りが遅くなったりした。

演劇部の顧問の先生の娘さんが、当時関西では人気抜群の劇団そとばこまちの女優西村頼子さんだった縁で、そとばこまちの芝居を全員で観に行った事もある。

今やドラマに映画に大活躍の生瀬勝久さんが、まだ「槍魔栗三助」の芸名でアイドル的な人気を博していた頃だ。

その時そとばこまちが上演していた「オズの魔法使い」の台本を、無理を言って頼子さんから貰い、「劇団員には絶対内緒よ。」と上演までに2回程見てもらってアドバイスを受け、3年の時の新入生歓迎会で披露したら、30人近い新入生が入部し、演劇部は大所帯になった。

体育館のステージに歌いながら登場して私の心を射抜いた2年先輩の元部長は、そとばこまちの入団オーディションを受けて合格し、何ヶ月か在籍した後、自分で劇団を興した。

「あたしも卒業したら劇団員になってお芝居をずっとしていたい。」
薄ボンヤリとした夢はただの憧れで、卒業したら9割が就職する商業高校で、就職せずに劇団に入るなんてとても言い出す勇気が無かった。

父が勧めた地元の企業に就職し、自分がやりたい事とはかけ離れた仕事に埋もれ、ずっとブスブスとお芝居への想いを燻らせながら4年程経った。

私は22歳になっていた。

父の勧めで就職した会社は体を壊して退職した。
やりたい仕事が見つかるまで、アルバイトで生計を立てた。

フリーターなんて言葉はまだ無かった。
「ちゃんと正社員で働いて無い人。」
それがあたしの肩書きだった。

派遣社員として事務仕事を転々とした。
どれだけ仕事を頑張っても、あくまで〝派遣の人〟。
ほとんど同じ仕事内容の正社員の人に
「そこの派遣の人。」と、名前も呼んでもらえないのがこたえた。

一度は封印したはずの〝お芝居がしたい〟という想いが再び沸々と沸き上がって来る。
派遣の人では無く、誰でも無い私を認めて欲しかった。

それまで私は、ずっと父の言う事は絶対だと思って生きて来た。
そもそもそれが、いい大人なのに間違っていたのか。
でも心の底から父を尊敬していたし、三人姉妹の末っ子だけど、私が両親の面倒はみるからと、自分の意志で家を継ぐと家に残ったのだ。

その家を出ようとしている。

悩んで苦しんで勇気を振り絞って両親に頼み込んだ。

「あたし、やっぱりお芝居がしたい。」
「3年。3年だけ劇団で活動したい。」
「バイトばかりで多分生活するだけで精一杯になるかもしれへんけど、それでもお芝居がしたい。」
「3年経ったら絶対に帰って来るから、家を出させて欲しい。」

勿論、両親共に大反対だった。

「何を夢みたいな事言うてるんや。」
「劇団みたい入ったら、バイトかて片手間になって食べていけるもんか。」
「家は?アパートは?家賃はどうするつもりや?」
「その気持ちがあるんやったら、ちゃんと正社員で働け。」

両親の言う事はもっともだったと今振り返っても思う。
確実に私の方が甘い。

現実をちゃんと見れてない甘さと無鉄砲さ。
でもすぐに引っ込めるつもりは無かった。
何度訴えても平行線で交わる事は無かった。

具体的なプランも無い。
あるのは〝お芝居がしたい〟その気持ちだけ。
「これで認めてもらえなかったら、勝手に家を出よう。」
そう腹を括って、父の前で土下座して泣きながら頼んだ。

「今行かへんかったら一生後悔する。」
「あたしがやりたい事は事務仕事や無いねん。お芝居やねん。」
「絶対に帰って来るから。3年だけ目をつむって欲しい。」

それまで反抗らしい反抗をした事無かった末っ子の娘の土下座は、父親の心のドアをこじ開けた。

「3年だけやぞ。」
「仮に上手い事いってもいかへんかっても、帰って来るのが条件や。」

自分の未来にパーッとスポットライトが当たったみたいだった。

何日付けで仕事辞めるって言おう。
京都のアパートの家賃の相場って幾らなんやろ?
具体的なプランも何も無く、ただお芝居がしたいという熱だけで勝ち取った家を出るという選択。

夢を夢見て夢うつつに夢想する。
でもそんな日々は長くは続かなかった。

母がおかしくなった。

姉二人はもう嫁いで家を出ていて、両親と私の三人暮らし。

「真理ちゃん(母は私の事をちゃん付けで呼ぶ)が、出て行ってしもたら、お母さんはどうしたらええにゃ。」
「どうやって生活していくねんな。」
「3年て言うてるけど、ほのまま帰って来うへんかもしれんわな。」
「お母さん寂しいて寂しいてかなんわ。」

顔を合わす度、この話になった。

私の部屋にやって来て、「行かんといて欲しい。」と号泣した事もある。

私は母が心配性であると、この時初めて知った。

いつも豪快でイラチで人一倍の負けん気で、力仕事も農作業もこなして来た母は、私にとっては肝っ玉母さんそのものだった。
頭ごなしに叱られる事はあっても、こんな風に母がなってしまうのは、全くの想定外だった。

別に外国に行く訳ではない。
東京に出る訳でも無い。
すぐそこ、京都で一人暮らしをするだけだ。
必要な物があれば1時間ちょっとで帰って来れる。

それでも母と娘は、まだ踏み出してもいない生活への不安と、想像で掻き立てられた寂しさに段々参ってしまう。

母が私の顔を見て泣き出したりするようになって、何週間経っただろうか。

ほんの少し前、スポットライトが当たったみたいに感じた自分の未来は、母親をおかしくさせてしまう程自分勝手なものだったのか。

結局、私はスポットライトを自分の手で消した。

夢は夢で終わった。

今これを書いていて、あの時の自分を思い返すと、死ぬ程恥ずかしい。

どこまで甘ちゃんなのか。
結局自分の気持ちが足らなかっただけじゃないか。
本当にやりたければ、家を出れば良かったのだ。
母がおかしくなってしまったなんて、ただの言い訳だ。
私自身がぬるま湯から出る勇気を持てなかった。
ただそれだけの事。

夢を諦めた私は、再びアルバイト生活に戻った。

正社員として働く訳でもなく、バイトに生き甲斐を見つける訳でもなく、不安定な収入と気持ちのまま、何をやっても宙ぶらりんな日常は誤魔化せず、何年か経った。

そんな私を見て母が言った。

「お前の人生しょうもない人生やわえ。」

悔し過ぎて反論も出来なかった。
言葉が出て来なくて、その場をやり過ごした。

「お母さんがあたしにそれを言うのか。」
「誰の為に夢を諦めたと思ってるの。」

悔しくて情け無くて、言われた言葉を振り返っては泣いていた。

母は多分何の気なしに言ったのだ。
思った事を良く考えずにポンと言ってしまう人だった。

「恨むまい。夢を夢で終わらせたのはあたし自身。」
自分に言い聞かせてやっと日常生活に戻れた。

でも、ドラマや映画が見られなくなった。

「あたしならあの台詞もっとこんな風に言うのに。」
「この女優、間が悪過ぎる。全然分かって無い。」

母が放った一言は、私から好きだったはずのお芝居を、見ていて苦しいものに変えた。
3年間高校演劇に身を置いただけの自分が、偉そうにプロの役者に向かってダメ出しし続けた。

普通にドラマや映画を楽しめる様になるまで、何年も何年も掛かった。

私が一瞬見せた本気を認めてくれた父が亡くなって、農業を継ぐ決心をし、農機具の使い方を一から教えてもらってお米作りに取り掛かかる事になった。

それでも田んぼでポツンと一人トラクターを運転していて、あの時家を出ていたらどうなっていただろうと考えてしまう。

どうしても本気でのめり込んでお米を作れていない自分が、堪らなく許せない。

今年の5月、『奇跡の人』の舞台を観に行った。
ずっとずっと観たい舞台だった。

演劇少女のバイブル『ガラスの仮面』をボロボロになるまで読み込んだ私にとって、ヘレン役は妄想の中で何度も演じた役だった。

長年掛けて封印して来たお芝居への気持ち。
それを掻き立てられて、また苦しむのでないか。
そう思うと怖くてチケットが取れなかった舞台だ。

梅田芸術劇場からの帰り道。
いつもなら今観てきた主役の台詞を、心の中で言ってみる。
車に乗り込んだら、エンジンを掛ける前に、動きを付けて台詞を言ってみる。

三十代の頃までなら必ず行っていた行動を全くやらない自分が居た。

自分の掌でもち余した夢は、掌の中で消えて、純粋にお芝居を楽しむ邪魔をしなくなった。

私は歳を取ったのだ。
運転して帰って、家に着いた時、こんな形で自分が老いた事を確認するとは思わなくて、苦笑いした。

そして6月15日。
令和喜多みな実の野村君率いる劇団コケコッコーの第4回公演となる舞台
『ハー・マインド・イズ・ポップコーン』を観に行った。

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漫才師として知る野村君が脚本、演出、芝居もする舞台。

「どんな脚本書くんやろ?」
それが会場になったCOOLJAPANPARKに足を向けた一番大きい理由だった。

私の頭の中には、欠片も生まれない発想の舞台。
これが見終わった時の率直な感想。

何に着想を得て、どう組み立てて台本に仕上げたんだろう。
会場に漂ううっすらと甘いポップコーンの香りを感じながら、野村君に聞いてみたい気持ちになった。

私自身の中に無いものを見せられると、その才能に嫉妬する。
自分がひどい凡人に思えて少し落ち込む。

座員全員がよしもとの芸人さんで構成されてる劇団コケコッコー。

もっと演技力のある役者さんは幾らでも居るし、もっとお金を掛けて本格的に仕上げた舞台は腐る程ある。

本業では無い中、多分限られた稽古時間で作り上げたお芝居は、拙さよりも
「こんなお芝居が出来るんや。」
と、小さな驚きが勝つものだった。

今流行りのONETEAMとでも言うか、ぎゅっと結束した塊の熱さは、同じ空間に居て同じポップコーンの香りを嗅いだ観客にもちゃんと届いていたと思う。

私個人的な一番の驚きは、爛々の萌々ちゃんの演技力。

ヤンキー上がりのコギャルみたいな見た目。
絶対に気が強いと思わせる目元。
漫才は観た事無いので、外見から入るイメージとは全く違った。

主役の萌々ちゃんの為に、萌々ちゃんを活かす台本を野村君は書いたのだろうか。

舞台を観て浮かんだ疑問の答えがOF LIFE の番組の中にあるかもと思った。

野村君は当て書きするのだと。
一緒に呑む飲み仲間じゃないと書けないと言っていた。

「あ~、だからだ。」
萌々ちゃん以外の芸人さんも、役の持つ味がちゃんとした。
分かり易く言えば〝役にハマっている〟

第5回公演の『ほな、さいなら』が関西演劇祭で幾つもの賞を獲得した後、放送されたOF LIFE 。

でも野村君が台本を仕上げる苦悩に密着しているという事は、賞が決まったからカメラで追い掛けたのでは無い。
その前から、漫才師と劇団主宰という二足の草鞋を履く野村君に密着していた事になる。

「漫才師やのに、何漫才以外の事やってんねん。みたいな事は言われる。」

それを言うのは、劇団コケコッコーの舞台を観た事無い漫才師だろう。

漫才にプライドを持つ余り、漫才以外の才能に蓋をするなんて勿体ないでは無いか。

芝居の脚本を書く。
演出する。
舞台装置や音響を考える。

細部の細部までこだわって出来上がった舞台が、漫才に悪影響を及ぼすなんてあろうはずが無い。

漫才に芝居の経験が活き、芝居に漫才で培ったものが活きる。

私は二足の草鞋を履く野村君が眩しくて眩しくて仕方が無い。

もっと若かったら、劇団員に入れて欲しくてNSC の門を叩いていたかもしれない。

番組の最後。
演劇祭の審査員として来ていた行定勲監督から、「野村君と萌々ちゃんとで映画を撮りたい。」とタクシーから声を掛けられた野村君が、実に嬉しそうに「鵜呑みにせんとこ。」と照れ笑いしていた。

行定勲監督は、人をおだてる為だけにそういう事を言う人では無いと思う。

もしかしたら、何年後かには「演劇界の鬼才、野村尚平」と表現される日が来るかもしれない。

ワクワクする高揚感と、一片の嫉妬心と、このままではいけないという焦りを私の中に産んで、番組が終わった。

私にとってのOF LIFE は何になるのだろう。