隣人のその先。その⑫【脳内アニキvol.27】
カレンダーに💮を付けた日がやって来た。
今日ゆずるが帰って来る。
いつもはダラダラと10時回ってからしかベッドから出ないのに、今朝は8時前には目が覚めた。
久し振りに髪も巻いた。
翔とゆずるの復帰祝いを何にするか、散々ああでも無いこうでも無いと話して、翔が提案した氷たっぷりのアイスコーヒーを買って来てお出迎えする事にした。
そんなんショボ過ぎると楓は反対したのだが、ホテルからずっと出られず支給されたお弁当しか食べて無いはずのアニキには、今まで当たり前に飲んでたアイスコーヒーが飲めるってのが嬉しいはずや。と言うゆずる信者の翔の意見に、「確かにそういうもんかも。」とアイスコーヒーを買って待っとく事にしたのだ。
コンビニのでは無く、ちゃんとスタバのアイスコーヒーだ。
でもその前に大学に行って、PCR検査の結果が陰性だった証明を持って行こう。
別に今日で無くてもいいのだが、家に居る間ずっとコロナについてやってる情報番組を見てたら、何日も大学行くのが空けば空くほど、コロナ差別を受ける様な気がして、形だけでも顔を出しておきたかった。
朝ご飯を食べて、いつもより時間を掛けて歯を磨き、カラコンを入れ、たっぷり化粧水に乳液を塗って、マスカラも二重三重に塗って化粧も完璧な仕上がり。
鏡の中の自分にピースしたい気分だった。
マンションを出て駅に向かっている途中、スマホが鳴った。
ゆずるからだっ。
楓「もしもし。」
アニキ「ああ。おはよう。」
楓「おはよう、ゆずるっ!」
アニキ「おお、朝から元気いいなぁ。」
楓「楓とゆずるのコロナ復帰記念日やん。」
アニキ「ガハハ~。何やねん、その記念日。一応言うとくわ。この後ホテル出るし。」
楓「ええっ。もう?」
アニキ「もう。って、時間言うてくれ言うたん、そっちやろ。」
楓「うん。うん。分かった。真っ直ぐ帰って来る?」
アニキ「なんか家で帰りを待つ嫁との会話みたいやねんなぁ。」
楓「心の嫁やん。」
アニキ「ガハハ~。ちゃうわっ。」
楓「なあ、真っ直ぐ帰って来る?」
アニキ「おお。着替えとか洗濯したいし、観葉植物枯れてんちゃうかなって気になるしな。」
楓「分かった。楓待っとく。」
アニキ「待たんでええねん。そんなん待たんでええし。それよりそっちも今日大学行くんちゃうんか?」
楓「いいねん。別に今日で無くても。ゆずるが帰って来るんやったら明日にする。」
アニキ「アカンアカン。何言うてんねん。大学行かなアカンがな。」
楓「けど、ゆずるに会いたいもん。」
アニキ「ほやからほんなん大学帰って来てからでも会えるやんけ。行かなアカンで。」
楓「ええ~~。」
アニキ「行け。行きなさい。」
楓「う~ん。分かった……。」
アニキ「ちゃんと行くんやで。ほなな。」
楓「うん。バイバイ。」
スマホを見つめる楓。
「ええ~。ゆずるにすぐ会いたいのに…。」
一気に足取りが重くなった。
それでも駅に着いてしまった。
改札口を通る。
電車に揺られながら、楓の気持ちも揺れていた。
「やっぱりゆずるに会いたい。」
楓は大学の最寄り駅では無く、二つ目の駅で降りてスタバに向かっていた。
一方のアニキ。
ホテルでお世話になったスタッフさんや、毎回検査してくれた医療従事者の方に御礼を言うと、「いつもテレビで見てます。頑張って下さいね。」と声を掛けてもらい、こっからまた新たな想いで仕事頑張って行こうと、晴れ晴れとした気持ちでホテルを出た。
ホテルにやって来た時は真夏だった。
Tシャツ半パンでホテルに入ったのに、約1週間振りにホテルを出ると、すっかり季節が進んでいた。
道行く人も、長袖のシャツやジャケット姿の人がぐっと増えている。
Tシャツ半パンの自分がちょっと浮いている。
Tシャツ半パン姿のアニキがマンションの部屋に帰る前に立ち寄ったのは、スターバックスだった。
ホテルから出られたら、まず何を食べたいか、どんな物を飲みたいか、ずっと考えていた。
自分の部屋でパスタを手作りして、タバスコたっぷりかけて食べようか。
コンビニでアイスクリームは絶対に買って帰る。
でもその前に、美味しいアイスコーヒーが飲みたい。
キャリーバッグをコロコロ引っ張りながら、アニキはスターバックスに立ち寄りアイスコーヒーを注文した。
「ありがとうございます。」
店を出るまで待ち切れず、すぐに口を付ける。
「苦っっ!」
びっくりする程苦くて、思わず声に出てしまった。
他のお客さんの視線を浴びる。
「恥っ。」
まだ完璧に味覚も嗅覚も戻っていない。
それでも最初の頃に比べれば、甘い辛いも分かる様になったし、コーヒーの匂いだってちゃんとした。
でも、舌がコーヒーの苦みに慣れていなかったのだ。
ずっと想像して楽しみにしてた味わいでは無くて、ちょっと残念だった。
でもこうやって、段々と日常に戻って行くのだろう。
一気にグイグイ飲むのでは無く、チビチビ苦みを味わって飲みながら、マンションに向かった。
そして、楓。
大学に行くのは辞めにして、スタバでアイスコーヒーを買って、マンションに戻って来た。
氷が溶けてしまわない様にすぐに冷蔵庫に入れる。
とにかく暑がりなゆずるに、キンキンに冷えたアイスコーヒーを飲んで欲しかった。
ゆずるが帰って来たら何て言おう。
「お疲れ様。」
お勤め終えた人に声かけるみたいか…。
やっぱり「お帰り!」やな。
氷が溶けてしまわない様に、駅からダッシュでマンションまで帰って来た。
息が上がる。
冷房付けて、ゆずるの為に買った扇風機の前に陣取って汗を引かす。
でも、ゆずるが帰って来た気配をちゃんと聴き逃さない為に、玄関のドアは開けっ放しにしておいた。
「あ~、汗で化粧落ちたやん。もう一回ファンデ塗り直そ。マスカラももっと盛ろっと。」
バッグの中をゴソゴソしてると、表で足音とコロコロとキャリーバッグを引きずる音が。
「ゆずる帰って来たっ!」
バッグを放り出し、転がる様に玄関に出て行く楓。
楓「ゆずるお帰りっ!」
アニキ「おおっ!ただいま。って、ちゃうやろ?何で家に居んねん。大学は?」
楓「行きかけてんけど、やっぱりゆずるに会いたくて帰って来てしもた。ちょっと待ってて!」
アニキ「アカンやろ。って、人の話聞いてへんな。おらへんがな。」
楓「はい!」
アニキ「何?」
楓「ゆずる絶対冷えたコーヒー飲みたいと思ってスタバに買いに行ってん。復帰おめでとう!冷蔵庫に入れといたからまだ冷え冷えやで。」
アニキ「ありがとう。って、ちゃうわ。こんな為に学校休んだんか?」
楓「別に絶対今日行かなアカン訳じゃ無いねん。」
アニキ「そういう事違うやろ。大学行けって電話で言うたやろが。」
楓「ほやから、ゆずるに会いたくて帰って来たんやて。もういいからせっかく買って来たんやから、アイスコーヒー飲んでよ。」
アニキ「いや、そんなん〝ありがとう〟言うて飲めるかい。俺はこんな事の為に大学休んで欲しいなんて一回も言うて無いで。」
楓「分かった。もう分かった。大学はこの後ちゃんと行くし。」
アニキ「ホンマに分かったんか?自分そういうとこやで。」
楓「自分って…。コロナになる前は楓ちゃんって呼んでくれてたのに…。」
アニキ「ああもうこんな子は自分で十分やな。」
楓「何なん?楓、スタバから走って帰って来たんやで。氷溶けへん様に。キンキンに冷えたまま飲んでもらおうって思って。」
アニキ「ほやから…。」
楓「もういい。大学にも行かんとアイスコーヒーなんかしょーもないもん買いにわざわざ行く楓はアホです。こんなアホな子と喋ったら、ゆずるアホが感染るで。」
アニキ「何やねん。大学はちゃんと行かなアカンって話をしただけやろが。」
楓「ほやから今から行くって言ってるやんッ!そのアイスコーヒーも要らんかったら捨てといてっ!」
アニキ「要らん事は無いよ。せっかく暑い中買って来てくれたんやから。」
楓「無理せんと、捨てといて。さいならッ!」
バタンッ。
玄関のドアを乱暴に閉める楓。
バッグを引っ掴み、また「バーンッ。」とドアを開け、まだ部屋に入らずアイスコーヒー片手に突っ立っているアニキの横をすり抜ける様に走って行った。
楓は駅に向かって走りながら
「ゆずるのアホ!ゆずるのアホ!人の気持ちも知らんと。」
心の中で毒づいた。
「翔のアホっ!」
絶対にゆずるは喜んでくれるって言ったくせに。
全然喜んでくれへんかった。
なんならちょっと迷惑そうな顔してた。
「自分。」って…。
前は楓ちゃんって呼んでくれたのに。
「ゆずるのアホ!ゆずるのアホ!」
すれ違う人が怪訝な顔してこっちを見る。
知らぬ間に「ゆずるのアホ!」と口に出してしまっていた。
「もう知らんっ。どうでもいい。」
楓は落っこちそうになってるスマホをグッとバッグのポケットの奥に押し込んで走った。
残されたアニキ。
「何やねん、ホンマにもう~。」
手荷物は一杯、そこにアイスコーヒー。
両手が塞がっている。
肩で押すようにして、自分の部屋に入る。
蒸せかえる様なモワーっとした熱さ。
テーブルに楓から貰ったアイスコーヒーを置く。
カップの外側に水滴が溜まって、徐々に氷が溶け始めている。
「もうしゃーないなぁ。」
思わず水滴を湛えたカップを見ながら苦笑いする。
「いや、アイスコーヒーならさっき自分で買って飲んだし。」
危うく言いかけて、楓の子犬みたいな目を見たら、何とか言わずに飲み込んだのだ。
「しゃーないなぁ。」
もう一回同じ事を言ってストローで一口飲んだ。
「え?苦無い。」
さっきは、余りに苦くて思わず「苦っ。」って言ってしまったのに。
ちゃんとアイスコーヒーの味がする。
それが、氷が溶けて薄まったせいなのか、それとも…。
アニキは残りのアイスコーヒーを一気に飲み干した。
つづく。