神様がいた夜

久しぶりに加藤クリニックで同室だった友達からlineが来た。

手術したのと反対の胸にエコーで7ミリの影が見つかって、病理検査に出してるとのことだった。

自分の事のようにドキドキする。
でも、乳癌専門医院として、大阪や京都からも患者さんが受診しにやって来るクリニックの主治医が、「多分大丈夫。念の為。」と言ってくれてるなら、きっと大丈夫!

私達四人は、加藤クリニックに一部屋だけある四人部屋で、術後一週間を共に過ごした仲間だ。

乳癌と一口に言っても、癌のタイプやどの部分に癌が出来て、温存手術なのか全摘手術なのか様々だ。
でもやはりデリケートな病気だし、何より女性にとって胸にメスを入れ乳房を部分的であれ失うというのは、男の人には分からないショックがある。

でも、同室になった三人は、年齢も40代50代70代とバラバラだったけど、みんな本当に明るい人達だった。
一人でもショックに沈んで、誰とも話したくないと思っている人が居たなら、あれだけ楽しい一週間を過ごせなかった。
自分の左乳房を失って尚、楽しい一週間だったと言える私は幸せだ。

私達四人は全員北斗晶さんに救われている。

私以外の三人は、北斗晶さんが乳癌を公表したニュースを見て、自分の胸にシコリがあるのを発見して受診、手術の運びになった。
会見を見ていなかったら、乳癌に気付いていなかったかもしれない。

私の場合はちょっと違う。

3年前、暑くてしばらくシャワーだけで済ましていた夏。
9月に入り、久しぶりにゆっくり湯船に浸かってふと自分の胸を見たら、左乳首が陥没していた。

「何これ?」
左乳首に手をやると、「コリッ」と確かなシコリがあった。
とっさに「あ、これは乳癌や。」と思った。

私の3歳上の真ん中の姉が、私と同じ48歳で乳癌になり、左乳房を温存手術し、抗癌剤放射線治療を経て、ようやく元気になってくれた矢先だった。

「あ、とうとう来た。」そんな気持ちだった。

姉の辛い辛い闘病を家族として見て来て、代わってあげることも出来ない、なんとか元気になって欲しいと祈る事しか出来ない。
それが辛かった。
検査の結果で再発なし。と聞く度に胸をなで下ろし、本当にようやくみんなが明るい気持ちになれたそんな矢先。

誰にも言う訳にはいかなかった。
勿論一番辛いのは当事者だ。
でも、見守る事しか出来ない辛さを三年間経験して、上のお姉ちゃんやお母さんが一喜一憂するのを見て来て、今度は私が乳癌かもしれないなんて、絶対に言い出せなかったし、言うべきじゃないと思った。
もしかしたら、違うかもしれない。
だったら、余計な心配をかける必要はない。

姉が受診している加藤クリニックに予約の電話を入れた。
二週間待つ事になった。

この二週間の間に乳首に痛みが出て来た。
ネットで調べると、乳癌の症状に痛みと書かれているのは、ほぼなかった。
だから、逆に「もしかしたらただの乳腺炎かもしれない。」と思い始めた。
乳癌か乳腺炎か。
五分五分の狭間で揺れるようになった。

そして診察日。

先生の見立ても五分五分だった。
乳首に太い針を刺されて、爪が折れるかと思うくらいギューッと手を握り締め、文字通り歯を食いしばって涙を流しながら必死に痛みに耐えて、病理検査に出す事になった。

結果が出るまで更に二週間。
そんな時に、あの会見が繰り返しニュースになって報道された。

北斗晶さんの乳癌と気付き手術に至るまでの経緯を綴ったブログは、私の症状と全く同じだった。
乳腺炎なんかじゃない。これはやっぱり乳癌や。」

診察結果を一人で聞きに行った。

「検査の結果は癌でした。」
「やっぱり。北斗晶さんの会見を見て、絶対あたしも癌やわと思ってたんです。」
「そう、北斗晶さんと全く同じケースです。」
そう言って、先生はにっこり笑った。
 
こんな時に先生笑うんや…。
私もつられて少し笑った。

〝絶対癌なんかじゃない。癌じゃないと言って。〟と、思って結果を聞くのと、〝きっと癌やわ。〟と思って結果を聞くのでは、天と地程の差がある。

先生の口から告げられた結果を受け止めるクッションを、私は北斗晶さんからもらったのだ。

でも次の言葉は全くの想定外だった。

「〇〇さんの場合は、乳癌が乳首の真下にあるので、乳房は全摘出します。」
「え?全摘なんですか?」
笑う余裕は全く無くなっていた。

自分が乳癌だと言うシミュレーションは十分して来た。
でもそのシミュレーションに全摘は含まれてなかった。

先生がよどみなく話す治療方法、癌のタイプ、進行具合、手術の方法。
手帳に必死で書き留めた。

書いている内に頭が冷静になった。
私にとって文書を書くという行為は、自分自身を客観視する為に必要不可欠な行為だ。

書きながら「神様はやっぱりちゃんと一人一人の事をホンマによく見てる。」そう思えて来た。

私は子供の頃から『やれば出来るのにやらない。』『欲が無い。』散々そう言われて来た。
いつも楽な方楽な方を選んで来た。
お父さんに「この家で怠けもんはお前だけやッ!!」と怒鳴られてシバかれそうになったこともある。
ずっと〝こんなままじゃアカン〟〝その内痛い目にあうかも〟そう思って来た。
この話をすると、「頑張ってお米作ってるやん。凄いわ。」と言ってくれる人が居る。
でも私は、農業が好きでやってるのではない。
紫外線アレルギーなので、毎年何度も何度も熱中症でダウンする。
農業は私にとって苦しいものでしかない。
ご先祖様が居て繋いで来て下さった土地にありったけの愛情を注いで、朝から晩まで汗を流して守って来たお父さんの想いが、自分の身体に残っているから作っている。
ただそれだけだ。
農家なら誰でもしている事を、特段な工夫をする訳でもなく、それでもお米が美味しいと言ってもらえるのは、土が持つ力だ。
それだけお米作りに適した土地だと言う事。
私の努力など余り関係ない。
と言うか、努力らしい努力もしてない。

ダラダラダラダラ生きて来てしまった。
自分の生き方を振り返って、こんな感想しか持てない。
だから、神様が最後のチャンスをくれたのかな?
「もういい加減生き方変えないと知らないぞ。」
神様がそう言っている。書きながらそう思えて来た。

説明を全部聞き終えた時には、もの凄く落ち着いていた。
たまらなく冷静だった。
全摘かぁ…。仕方ないな。
『胸より命』
これは北斗晶さんが会見で言っていた言葉だ。
私も口に出さずに心の中で言っていた。
そして、北斗晶さんに足を向けて寝れないな。
そう思ってちょっと笑った。

加藤クリニックを出て駅に向かう帰り道。
頭の中は〝お母さんやお姉ちゃん達になんて言おう〟それで一杯だった。

自分が癌になるのは仕方ない。
きっとそういう運命だっのだ。
でも家族は違う。

私は14歳の時を皮切りに、幾度となく精神のバランスを崩した。
その度にお父さん、お母さん、お姉ちゃん達。
言い尽くせない程の心配と迷惑をかけて来た。

もう二度と心配掛けたくない。
そう思って自分を守る為に、他人との距離を取り、眠れなくなってきたら薬を飲んででも寝るように気を付けて、やっと三十代半ばになって落ち着いて来たのに。
また心配を掛けてしまう。
なんの為に生まれて来たのか。
私が家族で居て良かった事なんてあるのか。
打ち消しても打ち消しても、ネガティブな考えしか浮かんで来なくて、クリニックではあんなに冷静で居られたのに、ぼーっとしている間に駅まで着いてしまった。

お姉ちゃん達に伝えなきゃ。

電話する勇気は出なくてlineした。
手帳に書き留めた事実を事細かにlineした。
今思えば、平日の仕事中にlineする事ではなかった。
冷静さを欠いていた。

びっくりしたお姉ちゃん達から電話が掛かってきた。
「ごめん…。」そう言うのがやっとだった。

お姉ちゃん達は優しい。
頼りない末っ子の私をいつもフォローしてくれる。
お母さんの容赦ない要求に「頑張ってやるんやから、もうあんまり言わんといたり。」と怒ってくれたりする。
私はお父さんとお母さんとずーっと暮らしたくて、望んで家に残った。
お姉ちゃんが旦那さんの悪口や、子供の悪口を言うのを聞いた事がない。
色んな人を見て来て、これがどんなに凄い事か、どんなに素晴らしい事か、独身の私にでもよく分かる。
なのに、お姉ちゃん達は私にしんどい事を押し付けたみたいな負い目を感じてくれている。
それがまた申し訳なかった。
私が幸せそうなら、お姉ちゃん達にそんな負い目を感じさせずに済むのに。

「お母さんになんて言おう。」
お姉ちゃん達には素直に一番不安に思っている事を言えた。
「事実を言うしかないな。」
自分が思ってた事をお姉ちゃんに言ってもらえて、やっと落ち着いた。
お姉ちゃんありがとう。

帰りの電車の中、なんてお母さんに言うかシミュレーションした。

私は絶対泣かない。
事実を淡々と伝える。
そして謝る。

駅に着いて、自分の車に乗り込んでハンドルを握り、選んだのは音楽ではなくてラジオだった。
音楽を聴いてせっかく落ち着いた心を乱されるのが怖かった。
ただ人の話す声を聴きたかった。

流れて来たのは、大好きな上ちゃんの『ええなぁ』
ラジオの内容はもう全く覚えてない。
ただ大好きな上ちゃんの優しい声のジングルを聴きながら、「こんな時でも上ちゃん、ええなぁ言うんや。」小さな声で突っ込んだら、ダムが決壊した。
号泣してしまって、路肩に車を停めて40分程動けなくなってしまった。

でもこれが良かった。
頭が痛くなる程泣いたらスッキリした。
もう一度、
私は絶対泣かない。
事実を淡々と伝える。
そして謝る。
この気持ちに立ち返る事が出来た。

家に帰って誓った三項目を実践出来た。

お母さんは私の話を聞いた後
「なんでこんな事なってしもたんやいね。」
たった一言そう言った。

そしてその後、いつもと同じように夕ご飯を食べ、いつもと同じようにお風呂に入り、いつもと同じように「もう寝るで。」と言って自分の部屋に入って行った。

有り難かった。
泣き崩れられたらどうしようと恐れてたのに、本当に救われた。

お母さんは強い。
もしかしたら私が弱っちい分、強くならざるを得なかったのかもしれない。

でも、本当に大丈夫だろうか。
自分の部屋で声を押し殺して泣いてたらどうしよう。
そーっとお母さんの部屋の前に立った。

いつもと同じイビキが聞こえて来た。

こんな時でもイビキかいて寝れるんや!
凄いな、お母さん!
さすがやわ!

なんか、笑えて笑えて、本当に声を出して笑った。

そして自分の笑い声を聞きながら、『あ、あたし笑えてる。大丈夫やわ。』そう思えた。
お母さんにまたひとつ助けてもらえた。

同時にお父さんが亡くなっていて本当に良かったと思った。

お父さんは、お母さんのようには受け止められなかっただろう。
全く怒る必要のなかったお姉ちゃん達に比べて、勉強もしない、根気も無い、それでも一番気持ちが優しいと一度だけ言ってくれたお父さんはもう居ない。

お父さんに心配かけずに済んだ。

やっぱり神様は一人一人の事を本当によく見ていてくれる。

しみじみそう思った夜だった。