高校球児の娘

お父さんの居ない24回目の父の日。

ガムテープを見ると甦る思い出がある。

あたしが中学生くらいの時。
居間の畳にガムテープが貼ってあった。
「何これ?」と思って剥がすと、下から煙草の形の焼け焦げが。

「もう~、お父さんまた寝タバコしたな。」
危ないなぁと思いつつ、誰が見てもすぐバレる証拠隠滅のやり方に、クスッと笑ってしまった。

外で飲み歩く事もパチンコも、ましてやギャンブルとは無縁だったお父さんの唯一の楽しみは、晩酌した後寝転びながらプロ野球のナイター中継を見る事。

でも学生だったあたし達娘は、プロ野球よりも音楽番組やドラマやお笑い番組が見たくて、お父さんがうつらうつらうたた寝を始めるとここぞとばかりにチャンネルを切り換えた。
するとそれもお決まりの様に「見てるがな。」と言って体勢を立て直し、やがてすぐにまた居眠りしてしまうのが常だった。

当時は今とは比べ物にならないくらい、プロ野球中継は人気コンテンツで、毎日程テレビでやっていた。
お父さんが見ているので、自然と目には入るけど、好きなテレビ番組を見れない不満の方が大きくて、実はあの頃あたしはプロ野球をちゃんと見ていた訳ではない。

それが自分が高校を出て社会人として働き出すと、学生の頃と違って変化の無い毎日のつまらなさと、自分がしたい仕事でもない職場で、結構神経をすり減らす日々に、〝働いてお金貰うってしんどいことなんやな。〟と、当たり前の事がやっと実感として湧くようになる。

そうすると、毎日の様にナイター中継を点けてはすぐに居眠りしてしまって、見たいテレビを見せてくれないちょっと煙たい存在だったお父さんの事が、なんだか少し可哀想に思えて来た。

夏場は太陽と共に起きて、汗だくになって野良仕事して、着替えて仕事行って、帰って来てシャワーを浴びて晩酌した後、一人ナイター中継を見る。
「もうこのピッチャーへばっとるなぁ。代え時やで。」
「アカン、ゲッツーや。」
プロ野球中継見ながら交わされるであろう、こんな当たり前の会話を、家族の誰とも交わさず、ただじっとテレビを見ているだけのお父さん。
たった一つの楽しみなのに、家族と共有出来ないなんて、それってもの凄くつまらない事なんじゃないか。

感想を一緒に言い合える相手が居た方が絶対に楽しいのに。

お母さんはスポーツは何一つ分かってない。
お姉ちゃん達二人は、ずっと軟式テニスをやっていて、野球のルールは分かっていないし、興味が無い。
お父さんの話し相手になる。
それは、小学校4年から中学校3年まで、6年間ソフトボールをやっていてルールが分かっているあたししか居ない。
そう思った。

それから、ちょっとずつナイター中継を一緒に見るようにした。

1985年の歓喜の日本一から数年経って、阪神はまた暗黒時代を迎えていた。
村山監督、中村監督、藤田監督。
いつ見てもベンチで眉間にしわ寄せて、辛気臭そうにしている阪神の監督はあまり好きにはなれなかった。

お父さんの好きな球団は南海ホークス
自分の好きな球団が消滅して、贔屓にする球団を失ったお父さんは、「わしは負けとるチームを応援するにゃ。」といつも言っていた。
だから常勝軍団、読売巨人軍の事を毛嫌いしていた。
「強い奴ばっかし入れてオモロない。」
あたしの巨人嫌いはお父さんからの刷り込みだ。

お父さんの横でプロ野球中継を一緒に見るようになる。
ナイター中継はどんなに弱くても阪神タイガース中心。
自然と阪神の選手に詳しくなる。
情が移る。
負けると悔しい。
特にお父さんの嫌いな巨人に負けると、二人で「また負けたっ!」とボヤクのが楽しくなった。

お父さんは野良仕事に行っていて見ていない、朝の情報番組で仕入れたミニ知識を駆使して
「このピッチャーはカーブが決まらんと苦しいわ。」とか、
「せっかくリードしてんねんから、守備固めで選手代えたらいいのに。」とか言うと
「分かったような偉そうな事言うてな!」と怒られた。

お父さんを喜ばせようと思って、ああだこうだ言ってるのに、なんで怒られるのよ。
よくそう思った。

でもそれも仕方ない事だった。
お父さんは甲子園を夢みる高校球児で、八日市高校でサードを守っていた。

昭和26年の夏。
当時は一県一代表制になる前で、滋賀県は京都と戦って勝った県が甲子園に出場する事が出来る京津(京滋)大会を経なければならなかった。
この頃の京都はべらぼうに強く、京都代表が甲子園でもそのまま優勝するくらいだった。
滋賀県は分厚い分厚い京都の壁をなかなか越えられず、甲子園は夢のまた夢だった。

そしてお父さんが高3の夏。
八日市高校は滋賀県大会を勝ち抜き、滋賀県代表として甲子園をかけて、京都代表平安高校と戦う事になった。

地元から甲子園に出場するかもしれない!
八日市高校の京津大会出場は、町中を巻き込んでの大フィバーだったらしい。

『山田〇一郎君を応援しよう!』
「あちこちにのぼりが立ってんぞ。」

お酒に酔って機嫌が良くなると、よくこの話が出た。
そう言うお父さんの顔は本当に誇らしげで、何度聞いても何度聞いても、あたしも嬉しくなった。
町中に立つのぼりをあたしも見てみたかった。

そして京津大会。
なんとお父さんはスリーベースヒットを打ったのだと言う。
三塁まで到達したお父さんは、監督のサインを見る。
次打者も監督を見る。
でも地元の大応援団の声援に、誰よりも緊張していた監督は、スクイズのサインを出すのが遅れてしまった。
監督がサインを出した時には、次打者はもうピッチャーの方を向いてしまっている。
平安高校ピッチャー投げる。
三塁走者のお父さんが走る。
次打者はびっくりして当てに行ったけど、空振り。
お父さんはあっけなく本塁憤死。

全員が平常心ではなかった。

せっかくの三塁打は得点には結び付かなかった。
そして、この大会を制した平安高校は、その年の甲子園でも優勝してしまう。

戦う相手が悪過ぎた。

そして、二年後。
お父さんが3年の時、一緒に汗を流して練習した後輩達が、見事京津大会を制し、甲子園出場!

人の記憶なんて曖昧なもので、40年近く経つと、京津大会で三塁打を放ったお父さんは、甲子園で三塁打を打った選手として刻まれる事になる。

「みんな、わしが甲子園で三塁打打った、凄かったな言うよるんや。」
「けど、お父さん黙ってちゃるねん。」
そう言って笑う顔は本当に嬉しそうで、ちょっといたずらっ子みたいで可愛かった。

この話を聞くのが、あたしにとってはちょっとしたご褒美みたいなもの。

その光景をこの目で見た様な錯覚を起こすほど、何度もその場面を想像した。

甲子園を目指して、真面目なお父さんはきっと誰よりも練習したに違いない。
あたしがちょっとテレビを見たくらいで、偉そうに野球を語るのが、本気で気に食わなかったんだと思う。

今、阪神タイガース命の様な生活を送っているあたし。
負けると「なんでこうなるねんっ!」と偉そうに文句を言うあたしを、お父さんは、「女のくせに分かった様な口聞いてなっ!」と腹立たしく思っているだろうか。

居間の畳は張り替えて、煙草の形の焼け焦げはもうない。

すっかり減ってしまったナイター中継を、お父さんが居てない部屋で一人見る。

あたしの中に巨人嫌いと阪神好きを植え付けたお父さん。
向こうでも野球をしているだろうか。