TOKYOの雨 ~春子さん編~ 《脳内アニキvol.6》

小さな包みの上のもう一通の封筒を手に取るアニキ。

開いてみると、こちらは百日紅の絵が控え目に描かれた縦書きの便箋だった。

少し弱めの筆圧の万年筆で書かれた手紙にはこうあった。



拝啓。
河井ゆずる様。

連日降り続く雨に、梅雨明けを待ち遠しく願う今日この頃です。

私、あの雨の日に、佐伯この実ちゃんに助けてもらった、後藤春子と申します。

追い抜きざまの車のクラクションにすくみ上がり、雨に濡れた荷物を抱え、焦るばかりで動けずに居た私の元に、バシャッバシャッと跳ねる様な足音を立てて、声を掛けてくれた女の子。

私にとっては、突然現れた救世主でした。

横断歩道から救い出してもらってから、バスに乗せてもらうまで、まるで目の前を突風が吹き抜けた様に感じたものです。

バスに乗ってからも、あの女の子はあの後どうしただろう。
髪も洋服も雨に濡れてしまって、大丈夫だったのかしら。

ずっとずっと女の子の事を考えておりました。

長野の娘のうちに着いて、挨拶もそこそこに、横断歩道での出来事を夢中で話す私に、去年の1月に主人を亡くして以来、東京で一人暮らしをする私の事を心配し、長野で一緒に暮らそうと言ってくれている娘は、少し涙ぐみながら聞いてくれました。

夕食の席でもこの時の話になり、結局長野に居た二泊三日の間、私はずっと女の子の事を考えていたのです。

もう一度あの女の子に会いたい。
会ってちゃんと御礼を言いたい。

東京に帰って来て、彼女に似合うハンカチを買い、毎日駅に通いました。

主人を亡くしてからは、外出する気力が失せ、更にコロナウィルスを恐れて自宅に籠もる日々を送っていた私にとって、駅に通う時間は心浮き立つものでした。

そして、ようやくあの女の子に会えたのです。

私が声を掛けると、「あーっ!」と輝く様な笑顔を見せてくれました。

ずっとお聞きしたかったお名前が、佐伯この実ちゃんだと教えてくれました。
(とても可愛いお名前だと思いませんか?)

ここからの経緯は、この実ちゃんのお手紙に書かれているので省きます。

この実ちゃんは私の事を東京でのお婆ちゃんだと思っていてくれるようです。

でも私にとって、この実ちゃんは可愛いお友達です。

この実ちゃんが
「春子さん、聞いて下さい。」
「春子さん、これ知ってます?」
と、春子さん春子さんと呼んでくれる度に、気持ちがパッと明るくなるのです。

主人は私の事を「春子」と呼んでいてくれました。

でも主人が亡くなってからは、娘や孫達だけでなく、行きつけのスーパーの店員さんにも、「お婆ちゃん」と呼ばれるのです。

そう呼ばれる事は、家族を持たない人からすればきっと贅沢で幸せな事に違いありません。

でも、この実ちゃんに「春子さん。」と呼ばれる度にワクワクする自分に、「私はずっと名前で呼んで欲しかったのだ。」と気付きました。

何処かのお婆ちゃんでは無く、後藤春子として存在したかったのだと。

私にそんな気持ちを思い出させてくれたこの実ちゃんから、あの後河井さんに助けてもらって、タクシーで送ってもらったと聞いた時は、心底ホッとし、私の大切なお友達を助けて下さった河井さんに、是非私から御礼を差し上げたいと思ったのです。

スマートフォンで見せて頂いた河井さんには少し渋過ぎるとも思いましたが、江戸扇子と呼ばれる扇子です。

三十以上もある工程を、一人の職人さんが全て請け負うのが特徴で、閉じた時パチンと心地良い音がします。

主人は粋な人で、いつも江戸扇子を鞄に忍ばせておりました。

でも、すぐ無くすのです。

その度に、主人に新しい扇子を買って帰るのは私の仕事です。

主人が扇子の入った箱を開ける瞬間のあのドキドキした気持ち。

河井さんへの贈り物を選びながら、主人に扇子を選んでいた時の気持ちを思い出し、私はとても幸せでした。

そうそう。

この実ちゃんにアインシュタインさんの漫才も見せてもらったんですよ。
(今はスマートフォンで漫才も見られるのですね!)

河井さんがお寿司屋さんに行くお話でした。

相方の稲田さんが大熱演されてて、この実ちゃんがケラケラ笑うのです。

でも、ごめんなさい。

私には少し早口で聞き取りにくい所があり、特にお寿司屋さんの大将を演じておられる稲田さんの台詞が聞き取れなかったのです。

それをこの実ちゃんに伝えると、漫才を見ていた時以上に笑うのです。

「春子さん。これはわざと聞き取りにくくやってるんやで。」と言われてしまいました。

今度劇場に一緒にアインシュタインさんの漫才を観に行く約束をしたのに、
どうせならやっぱりお友達と来れば良かったとこの実ちゃんに思われるのは嫌です。

実は今度の週末、この実ちゃんのお部屋にお邪魔するのです。

アインシュタインさんのDVDを買っておくから、一緒に見ましょうと誘ってもらったのです。

娘時分を思い出して、ちょっとドキドキしています。

私、学生時代は勉強家でした。

一生懸命アインシュタインさんの漫才を勉強させて頂いて、この実ちゃんと劇場で大笑いしたいと思います。

河井さん。
テレビでも大活躍されてるお忙しい身です。

蒸し暑い折ですが、どうぞお身体御自愛下さい。

乱筆乱文失礼致しました。

            敬具。

令和二年七月吉日  後藤春子。



この実の手紙に負けず劣らず分厚い便箋を畳ながら、声を出して笑ってしまうアニキ。

桐の箱を開けてみる。

藍色のモダンな市松模様の江戸扇子だった。

開けると微かに白檀の香り。

春子の手紙に書いていた通り、閉じる時パチンと音が鳴る。

開いてパチンと閉じる。
開いてパチンと閉じる。

自分の部屋だけ、一足早く梅雨が開けたようだった。