隣人。その1 《脳内アニキvol.7》

朝、仕事に向かう為にアパートの1階に降りると、引っ越し業者のトラックが停まっていた。

「あ、ずっと空いてた隣の部屋、やっと誰か入るんか…。」

引っ越し荷物を降ろしにかかる業者のお兄ちゃんにチラッと目をやって、仕事に向かうアニキ。

この時アニキは、この引っ越しが自分の素敵な東京ライフに影を落とす事をまだ知らない。


夜、テレビの仕事を終えてアパートに帰って来たアニキ。

自分の部屋の手前、お隣さんの部屋に明かりが点いていた。

「あ、やっぱり隣、越して来はったんや。」

部屋に入り、リュックを下ろし、キッチンで手を洗う。

冷蔵庫から缶ビールを取り出して、さあ飲もうとしたその時、ドアホンが鳴った。

モニターを覗くと、40代くらいの女性。

女性「夜分遅くすみません。隣の部屋に越して来た真田です。ご挨拶だけすみません…。」
アニキ「あ、はい。」

ドアを開けるアニキ。

女性「あ、あの、えっ!ええッ?アインシュタインアインシュタインの河井さんですよね?」
アニキ「あ~、はい。」
女性「ええーッ!スゴイッ!ちょー、ちょっと待ってて下さい。」
アニキ「え?いや、あの~。」

隣の部屋に一旦戻る女性。
部屋の中に向かって大声で誰かを呼んでいる。

女性「楓っ!楓っ!」
楓「何なん、うるさいなぁ。」
女性「ちょっと、ちょっと、早よ出て来いって!」
楓「ほやから、何よ?」
女性「隣、河井ゆずるなんやって!アインシュタイン河井ゆずるよっ!」
楓「ええっ!嘘!」
女性「嘘ちゃうわ、ほやから早よ出て来いって。アンタも早よ挨拶しいな。」
楓「マジでっ?嘘やんッ!ヤバッ。」

アニキ「うわ…、最悪や…。」

先に挨拶に訪れたのは、楓の母親真田亜希子。

亜希子と、キティちゃんの健康サンダルを引っ掛けてなだれ込む様に娘の楓がやって来た。

楓「うわっ!ヤバい、ヤバいって!凄い~。」
亜希子「ほやから、ホンマにアインシュタインやろ?」

アニキ「あの、あの~、すみません。もう夜も遅いし、ご近所迷惑になるんで…。もういいですか?」

亜希子「あ、すみません。なんかびっくりして興奮してしまって。楓、ちゃんと挨拶しい。」
楓「あ、あたし、真田楓です。東京の大学通うのに、やっと今日引っ越して来たんです。」

アニキ「あ……、河井です。よろしくお願いします。」

楓「キャーッ!ヤバッ、むっちゃ格好いいねんけど。」
亜希子「ホンマに。テレビで見るよりずっと格好いいです!」

アニキ「あ~、ありがとうございます。じゃあすみません。失礼します。」

楓「えー、河井さん、写真撮ってもらっていいですか?」

(マジかよ。嘘やろ、勘弁してくれよ。)

アニキ「いや、すみません。ちょっと部屋がバレたりするのも最近では怖いんで…。ごめんなさい。」

楓「ええ~、アカンのぉ~。」

亜希子「ちょっと、何言うてんの。すみません。ちょっとこの子びっくりし過ぎて、厚かましい事言うてしもて。」
楓「けど、せっかくアインシュタインのゆずるが隣やのにぃ~。」

アニキ「ゆずる?」

楓「あたし、大阪出身なんです。パパが東京で一人暮らしするのに、ずっと反対してて、おまけにコロナで引っ越して来るの遅れたけど、まさか隣がアインシュタインのゆずるやなんて!」
アニキ「あの、初めて会った年上の人の事、呼び捨てにせん方がええよ。」
亜希子「すみません。ちょっと興奮してるんです。(楓に向かって)何にもそんなに焦らんでも、明日から毎日会えるんやさかい。」
楓「うん…。え~、写真アカンのぉ?」
亜希子「まだ言うてるわ、この子。今日はもう止めとき。」
楓「う…ん。」
亜希子「すみません。河井さん、なんせ初めての一人暮らしなんで、またなんかあったら助けたって下さい。」
アニキ「いや、僕無茶苦茶不規則な生活ですし、ほとんど家に居てないんで…。」
亜希子「御活躍ですもんねぇ。あ、この前のアレ見ました!」
楓「もう、ママばっかりゆずると喋ってるやん。」

アニキ「じゃあ、すみません。失礼します。」

バタン。

アニキ「嘘やろ…。何やねんこれ~。最悪やんけー。」

一方の真田母娘。

楓の部屋で興奮冷めやらず、盛り上がりに盛り上がっている。

楓「信じられへんッ!なあ、ママ、信じられる?隣がゆずるやで。むっちゃ嬉しい~。どうしよ~。」
亜希子「ホンマに格好良かったな!翔(かける)に言うたらびっくりするで。」
楓「ホンマやっ!翔言うてたもん。あの子アインシュタイン大好きやん!しかもゆずるのファンなんやで。いっつも『ゆず兄』言うてるくらいやのに。」
亜希子「今日一緒に翔も来たら良かったのになぁ。」
楓「翔に教えたらな。」

翔に電話する楓。

楓「翔?あたし。」
翔「あ、姉ちゃん引っ越し終わったん?」
楓「終わった。ってか、そんなんどーでもええねん。なぁ、むっちゃ凄い事起きてん。」
翔「何?」
楓「当ててみ。」
翔「何やねん。そんなん分からんわ。教えてーや。」
楓「びっくりせんときや。あんな…。隣の部屋、ゆずるやってん!」
翔「ゆずる?」
楓「そやねん、アインシュタイン河井ゆずるやねんっ!スゴない?」
翔「えーーーっ!嘘やんっ!マジで?」
楓「嘘ちゃうで。ホンマやで。アンタ言うてたやん。中目黒やったらゆず兄も中目黒やから、もしかしたら同じアパートやったりしてって。」
翔「うん。」
楓「ホンマに隣やった!アハハハハハ~~。ヤバ、なんかウケるねんけど~。」
翔「姉ちゃん、姉ちゃん。」
楓「何?」
翔「ゆず兄が隣ってもう誰かに言うた?」
楓「ううん。アンタが最初。ホンマや!びっくりし過ぎて友達に言うの忘れてるわ。」
翔「違う違う違うっ!姉ちゃん、姉ちゃん。」
楓「何よ?ちょー友達に電話するし、もういい?」
翔「アカンっ!絶対アカンっ!」
楓「何がよ?」
翔「そんなん、ゆず兄が隣やなんて友達に言うたらアカンって。そんなんしたら、バーって一気にに広がってまうやん。」
楓「何がアカンの?」
翔「アカンって!姉ちゃんかて自分の部屋がどこにあるか、知らん人に知られたら困るやろ。相手は芸能人なんやで。」
楓「そんなん勿論内緒にしてもらうに決まってるやん。」
翔「内緒になんか絶対ならへんわ。姉ちゃんの友達、みんなむっちゃ口軽いやんけ。」
楓「ほんな事無いわっ!」
翔「ほんな事あるって。ってか、姉ちゃんホンマお願いするわ。他の人に喋らんといたって。ゆず兄可哀想過ぎるやん。」
楓「アンタ、ゆずるの何なんよ?」
翔「むっちゃファンやん。むっちゃファンやし、姉ちゃんが失礼な事すんの嫌やねん。俺、むっちゃ失礼な女の弟やて思われたーないもん。」
楓「何やな、アンタ。なんか腹立つわぁ。」
翔「姉ちゃん。お願い。なあ、俺のお願い聞いて。あ~もう、何で今日一緒に行かへんかったんやろ。」
楓「引っ越し手伝わされるの鬱陶しいて言うたんアンタやんか。」
翔「そやった。」
楓「もういい?切るで。」
翔「アカン、アカン。約束してーや。友達に喋らへんって約束してーや。」
楓「分かった、分かった。喋らへんって。」
翔「ホンマ?ホンマやで?」
楓「もーしつこいわ。ほなな。」

亜希子「翔、何やて?あの子びっくりしてたやろ?」
楓「あたしに友達にゆずるの事言うたら絶対アカンやて。偉そうに。」
亜希子「ほんなん言うたん?あの子の方がよっぽどアインシュタイン好きやんか?」
楓「ほうよ。ほやのになんか偉そうに。自分の方がよっぽど嬉しいくせに。いい子ぶって。ムカつくわぁ。」
亜希子「けどな、ホンマにいきなり騒ぎ過ぎたら、楓嫌われるで。明日から嫌でも毎日顔合わすんやさかい。そんな焦らんとき。」
楓「ママまでそんなん言うん?さっきママの方が興奮してたやん。」
亜希子「いきなりドア開けて河井ゆずるが出て来たら、誰でもびっくりするわ。」
楓「ほやろ?あたしだけが悪いんちゃうやん。」
亜希子「悪いなんて言うてへんやん。ここは落ち着き言うてるねん。」
楓「何それ…。」
亜希子「アンタはせっかち過ぎるわ。いいか、ここはママに任せとき。最初が肝心やさかい。」
楓「何するつもりなん?」
亜希子「何もせえへんよ。何もせえへんけどな、どうせなら印象良くしときたいやんか。」
楓「ママの印象良くしたいだけちゃうん?」
亜希子「アハハ。バレた?」
楓「何よ、それ。」
亜希子「けど、ホンマにむっちゃ格好良かったな。ママ興奮したわ。」
楓「興奮してるやん。」
亜希子「興奮した!」
二人「アハハハハハ~。」


夜は更けつつあった。


つづく。