隣人のその先。その⑦【脳内アニキvol.22】

2020年9月16日

楓のPCR検査が終わった。

検査をしてくれる看護師さんの防護服に手袋、サージカルマスクの上にフェイスシールドと完全防備の姿を目にして、自分はコロナウイルスに冒されてるかもしれないんだと、まざまざと思い知らされた気がして、病院を出るその足取りは重かった。

いつもならコンビニにジュースやお菓子を買いに寄ったりするのに、何度も他の方との接触を避ける様に言われて、自分の部屋に真っ直ぐ戻るしか無かった。

「なんか…疲れた。」
「ゆずる、どうしてるんかな…。」

思い切って、掛けてみる。

出てはもらえなかった。

「なんで…。ゆずるの声聞きたいのに…。」

アニキの電話番号を手に入れてから、ずっと掛けたかった。

でも直ぐに掛けたりしたら、嬉しがってベラベラと喋る子だと信用してもらえ無い気がして、ずっと我慢してたのだった。

気軽に掛けたのでは無い。

楓なりに気を遣ってたのだ。

だから、電話に出てもらえなかった事実は、未体験の検査を受けて疲れていた楓の気持ちを傷付けた。


当のアニキはその頃、楓の隣の部屋で、高熱と猛烈な頭痛にのたうち回っていた。

「クッソ…。アカン…。マジでしんどい。」

僕は元気です。とSNSでファンに報告した時は確かに無症状で元気だったのだ。

でもその後、39℃近くまで急激に熱が上がった。

汗が吹き出る。
着替えようと身体を起こそうとして、頭痛と吐き気でまたベッドに倒れ込む。

まさか自分がこんな事になるとは。

電話やlineが届いているのは分かっていた。

でも今のアニキには、スマホを手に持つ気力も無かったのだ。


アニキがそんな事になっているとはつゆ知らず、誰かの声が聞きたくなった楓は大阪の友達に電話を掛けた。

楓「もしもし?亜津沙?」
亜津沙「楓~。久し振り。元気~?」
楓「元気や無いねん。」
亜津沙「何?どうしたん?」
楓「うん…。マンションの隣の人がコロナになって…」
亜津沙「嘘ッ!ヤバない?」
楓「うん。そんで楓も検査受けて来たねんか。」
亜津沙「え?どうやったん?」
楓「まだ検査の結果待ちやねんけど。」
亜津沙「ええ~。検査ってどんな感じ?隔離施設みたいなとこに行くん?」

楓が聞きたい言葉は言ってもらえなかった。

コロナウイルスに感染したかもしれない。

その事実は、大阪と東京と離れてしまった友達にとっては話のネタでしか無いのだと思い知らされて、電話を掛ける前より楓は傷付いていた。


楓の大阪の実家では会議が開かれていた。

今すぐにでも楓を迎えに行って、マンションを引き払い、大阪に連れて帰りたい竜一と、コロナ対策は万全にして業務を行っておりますと、取引先に言っているのに、この時期にコロナウイルスに感染したゆずるが居るマンションに出向くのは危険過ぎると主張する亜希子と、どちらも一歩も引かず修羅場目前。

レフィリー役として、竜一の仕事の師匠である織田が呼ばれていた。

翔は不用意に言った「姉ちゃんなら大丈夫。」の一言に「ほんな保証何処にあるんじゃ、ボケッ!ええ加減な事言うてなッ!」と竜一にしこたま怒鳴られシュンとしていた。

結果的に「楓ちゃん本人が大阪に帰って来たいと言ってるならともかく、本人はまだ東京に居たい、大学も辞めるつもりは無いと言ってるなら、楓ちゃんの意志を尊重すべき。」と至極まともな織田の裁きにより、楓の東京暮らしは守られた。


翔「姉ちゃん?検査受けて来たん?」
楓「翔………。」
翔「え?姉ちゃんどうしたん?しんどいんか?」
楓「ううん…。う…。」

翔の声を聞いて、一人で堪えていた気持ちが一気に緩んだ楓は泣いていた。

翔「姉ちゃん、姉ちゃん、ホンマに大丈夫なん?」
楓「うん。大丈夫。検査受けて来た。」
翔「うん。」
楓「結果は明日分かるって。」
翔「うん。」
楓「さっき、ゆずるに電話したんよ。」
翔「ゆず兄何て?」
楓「出てもらえへんかった…。」
翔「え…。」
楓「楓に電話番号教えたん、失敗やったと思われてんのかな…。」
翔「ちゃうて。ゆず兄、きっとしんどいねんて。」
楓「そうなんかな。」
翔「うん。きっとそうやって。それより姉ちゃん、今日織田さんも呼んで、姉ちゃんを大阪に連れて帰るかどうか、みんなで話してん。」
楓「うん。」
翔「織田さんが姉ちゃんの気持ちを尊重すべきって言ってくれて、姉ちゃんの東京暮らしは無事守られました!」
楓「マジ?良かった。」
翔「パパが部屋から出られへんやろから、何か必要なもんがあったらなんぼでも言え、送ったるって。」
楓「ありがとう。」
竜一「ちょー、代われ。楓、どや検査どやったんや?」
楓「パパ。結果は明日分かるって。」
竜一「そっか。楓。もし楓がコロナウイルスに感染してても、楓はわしの大事な娘や。わしがついてたる。何にも心配せんでええ。」
楓「パパ…。う……。うん。」
亜希子「ちょっと代わって。楓?」
楓「ママ。」
亜希子「病院一人で行って来たんか?」
楓「うん。」
亜希子「怖かったやろ?」
楓「………。」
亜希子「しばらくマンションから出られへんやろ?」
楓「…うん。」
亜希子「楓の好きなおかず、COOL便で送ったるから。」
楓「うん。」
亜希子「検査の結果が分かったら、直ぐに電話してくるんやで。」
楓「分かった。」
亜希子「楓にはパパもママも翔もついてるしな。安心して今日はゆっくり寝なさい。」
楓「うん。ママ…。」
亜希子「うん?」
楓「ありがとう。」


今まで鬱陶しいとしか思ってなかった親の有り難みを抱き締めて、その夜楓は眠りについた。



つづく。