隣人のその先。その⑬【脳内アニキVol.28】

「お待たせ致しました。お次の方どうぞ。」

ピッピッピッ。

「レジ袋はお持ちでしょうか?」
「ありがとうございます。お会計896円になります。」

2020年10月。

楓はコンビニでアルバイトを始めていた。

まだ働き始めて2週間。

今日が5回目のバイトだ。

「なります。」じゃなくて「ございます。」だと、先輩バイトから度々注意されるのに、一向に直らない。

楓にしたら、ものすごくちゃんとした敬語を喋れてると思うのに。

「なります。」の何がそんなにアカンのやろ?



先月の24日。

コロナに感染したゆずるが、療養用のホテルからやっと帰って来た。

その日、自分は陰性だった証明を大学に持って行くはずが、やっぱりゆずるに会いたくて、引き返してアイスコーヒーを買ってお出迎えしようと待っていた。

「お~、気が利くやんけ。」とかなんとか、喜んでくれる顔だけを想像して、氷が溶けない様に自分は汗だくになってダッシュで帰って来たのに、大学に行かなかった事をゆずるに怒られた。

なんだか悔しくて、でも確かにゆずるの言ってる事の方が正しくて、だからこそ余計腹が立って、あれから一度もゆずると顔を合わせていない。

ゆずるはゆずるで、仕事に穴を開けてしまった分を取り戻すべく忙しいのか、マンションに帰って来ない事も多かった。

一方の楓は大学と言ってもリモート授業がほとんどで、たまにしか行く必要が無い。

たまにしか顔を合わさない大学の子とは、ずっと距離を埋められないままだ。

詩織と電話で話している時が一番楽しい。

でも授業料や下宿代をバイトで賄っている詩織は、楓の大して面白くも無い話を「うん、うん。」と言いながら聞いてくれていたはずが、途中で寝てしまったりする。

それが、忙しい詩織を暇な自分が邪魔してるだけの様な気がして、電話する回数が段々減ってしまった。

一方、テレビにラジオに劇場での漫才。

ゆずるは引っ張りだこの人気者だ。

そんなゆずるはあたしの事なんか、これっぽっちも気に留めて無い。

確かめた訳じゃ無いけど、きっとそうだ。
絶対そうに決まってる。

前なら自分の部屋でゴロゴロしてても、別に何とも思わなかった。

でも、隣のゆずるの部屋から何の物音も聞こえて来ない日が何日も続くと、楓は自分だけが置いてけぼりを喰ってしまったみたいで、モヤモヤモヤモヤしてずっと仏頂面になってしまう。

「アルバイトでもしようかな…。」

ぼんやり思い始めていた気持ちを後押ししてくれたのは、大阪時代の友達の一言だった。

「楓、何しに東京行ったん?」

「大学もほとんど行ってへんねんろ?」
「東京のお洒落スポット巡りとかしてんのかと思ったら、全然情報知らんし。」
「サークルとかも入ってへんし。」
「一日部屋で何してるん?」

「ええ~。ほんな思い切り暇人みたいな言い方せんといて。」

そうは返したけれど、正直心にグサリと刺さった。

なんか、自分がもの凄く価値の無いつまらない人間だとレッテルを貼られたみたいで、何とも言えない嫌な気持ちになった。

おまけに悔しくて、もうちょっとで、「今までずっと秘密にしてたけど、楓の隣の部屋、アインシュタイン河井ゆずるが住んでんねん!凄いやろ?」って言ってしまいそうになった。

ずっとちょっと馬鹿にしてる感じの友達に「嘘やんっ!マジッ!凄いやんっ!」って言わせたかった。

でも、でも、でも。

やっぱりそれだけは言ってしまったらアカン。

もうゆずるにずっと会ってもいないのに、一体何の為に誰の為に誓いを立ててるのか、それに何の意味があるのか、分からなくなって来てしまう。

そんな事ばっかり、一日中ずーっとおんなじ事をグルグルグルグル考えてばかりいる自分が嫌いで、マンションからそう遠くない『アルバイト募集』のチラシを貼ってるコンビニに履歴書を買いに来たのが2週間前。

文房具や生活日用品が置いてあるスペースから、そっとレジの様子を覗いて、怖そうな店長では無いか、ウルサそうなおばちゃんのパートは居ないか、楓なりにチェックしたつもりだ。

10分かそこらで分かるはずも無い。

それでも、履歴書だけを買った楓に対して「ありがとうございます。」とニッコリ笑いかけてくれた20代の女の人の態度が決め手になった。

その20代の女の人は、桜井さんって言って、シュッとした綺麗な人だ。

大学を出て、ブライダルサロンに就職して1年も経たない内に、コロナの影響をもろに受けて閉鎖されてしまって、とりあえずアパートの家賃を払う為にコンビニで働き始めた。
と、お喋り好きな藤本さんって主婦パートさんが教えてくれた。

みんな色々大変なんやな…。

そんな呑気な事を思っていられたのも、最初の一日だけだった。

一通りアルバイトがやるべき仕事の説明が終わって、二日目からいきなり「後ろで見てるからやってみましょう。」と、店長に言われてレジの前にドキドキで立つ事になった。

初アルバイト、初接客、初敬語の楓は、全然スムーズにレジがこなせ無かった。

午後2時から5時までの比較的暇な時間帯で慣らして行きましょうと、34歳(これも藤本さんに聞いた。)の関本店長は言ったけど、全然暇では無かった。

レジに並ぶ人が、途絶える事はほとんど無かった。

何より一番キツかったのは、レジに並んでるお客さんがみんな無言で、レジが終わってもほとんど無言の事だった。

大阪なら、「ありがとう。」とか「おおきに。」ってほとんどの人が言ってたのに。

ずっと無言で拙い楓のレジを、ジッと見ていられるのが、とにかく凄いプレッシャーで、部屋に帰ってもお風呂に入る気も起こらないくらいヘトヘトになった。

ただ、コンビニでアルバイトを始めてから、一つ変わった事がある。

あまり、ゆずるの顔が浮かばない。

もうちょっと正しく言うと、浮かべてる余裕が無い。

テレビを点けたらたまたまアインシュタインが出てて、「あ、ゆずるや。」と疲れ切った頭で思うくらいだ。

このままもしかしたら、もう二度と前みたいに、しょうもない話をしたりしないまま、コンビニのレジカウンターのこちら側と向こう側みたいな距離があるまま、あたしの東京生活は過ぎて行くのかも…。

膝を折って首がもげるんちゃうかと思うくらいバカ笑いしてるゆずるを見ながら、楓はぼんやり思っていた。          





つづく。