隣人のその先。その⑰【脳内アニキvol.32】
お釣り手渡し事件から五日振りに楓はアルバイトに出掛けた。
別にあの事件で嫌になって行くのを渋ってた訳では無い。
元々のシフトがたまたまそれだけ空いていたのだ。
でも出勤すると、他のバイトのみんなから、「嫌になって辞めたのかと思った。」と言われた。
どうやら楓はもの凄く意志の弱いええ加減な子と映っているらしい。
桜井さんも辞めていなかった。
むしろ、前よりもより爽やかにパワーアップして、「おはよう!元気にしてた?」と眩しいくらいの笑顔で声を掛けてくれた。
ゆずるがやたら桜井さんの事気にするから、焼き餅焼いて辞めてくれたらいいのにと一瞬思ってしまった自分が、もの凄いクズな様に思えてしまう、そんな笑顔だった。
あの怒鳴り散らしたトンデモ老人は、あの日以来姿を見せていないらしい。
それまではほぼ毎日来ていたのに。
恥をかかされたと思ったのか、とにかく一切来なくなった。
コンビニに平和が戻っていた。
主婦パートの藤本さんは、「民意の勝利よ!」と言っていた。
「民意の勝利」
イマイチ意味は分からないけれど、なんだか格好いい。
楓が出勤して無かった5日間の間に大きな変化があった。
あの実質的にお釣り手渡し事件を収めてくれた関西弁の男性が、どうやら桜井さんといい感じらしいのだ。
その日のバイト終わり、桜井さんと藤本さんと楓は上がりの時間が一緒で、深夜バイトのスタッフと交代した。
いつもは少しお喋りしたりして、まったりしてからコンビニを出るのに、この日の桜井さんはダッシュで制服の上着を脱ぐと「お先でぇーす。」と出て行った。
何か予定があるのかな?と思いながら楓がその後出て行くと、二つ先の信号の角の本屋で桜井さんを見かけたのだ。
桜井さんは一人では無かった。
あの関西弁の男性と話していたのだ。
「おはよう!元気にしてた?」と楓に声を掛けてくれた時の3倍くらいの笑顔で。
遠目に見ても桜井さんの笑顔が光ってる様に見えた。
そしてその隣の関西弁の男性は、もうこれ以上ないくらいデレデレしてるのが離れている楓の所まで伝わって来た。
「ええっ!そんな事なってんの?」
思わず声に出すと、「やっぱり!」とすぐ隣で声がした。
ギョッとして見ると、反対方向に帰って行ったはずの藤本さんが隣に立っていた。
楓「藤本さん!」
藤本さん「やっぱり。私の読みは正しかったわ。」
楓「いつからですか?」
藤本さん「あの事件の次の日からも毎日、桜井さん目掛けて来てたのよ、あのお兄さん。あれからいつもより長い事話してるなぁと思ってて、桜井さんもちょっと感じが違うなと思ってさ。なんか今日バタバタして帰って行ったから、ピンと来たのよねぇ。」
楓「ええ。なんか、スゴ。」
藤本さん「でもあのお兄さんの粘り勝ちね。ホントに毎日毎日桜井さん目当てで来てたもの。」
楓「へぇ~、そうやったんですね。」
藤本さんの勘の鋭さと行動力に少しビビりながら、それでもあのお兄さんの想いが桜井さんに通じて良かったと思う楓だった。
そして、これでゆずるは桜井さんにちょっかいなんて出せへんなと思うと、ずっとモヤモヤしてたジェラシーなんだか、怒りなんだか良く分からない感情が、スーッと消えて楽になった様な気がした。
「お兄さん、グッジョブ!」
笑いながら足を揃えて歩き出した桜井さんと男性を見ながら、楓は心の中で声を掛けた。
つづく。